笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

テレビ局や新聞社、広告代理店や映画制作会社などから毎日のように問い合わせが入り、取材や撮影の相談が後を絶たない商店街があります。

 

「以前は知名度もなければ、何もない商店街でした」と振り返るのは、戸越銀座商店街連合会専務理事として広報を担当する亀井哲郎さん。戸越銀座銀六商店街で1926年に創業した宝石・時計・眼鏡専門店「ギャラリーカメイ」の3代目として自身の商いとともに、商店街活性化に取り組んできた亀井さんに、街とDXについて考える、やってみるためのポータルサイト「Macitta」の協力によりインタビューしました。

 

知名度なし、ぼろ駅舎……何もない商店街だった

 

——亀井さんは生まれも育ちも戸越銀座。幼いころから商店街で育ち、その栄枯盛衰を肌で感じられてきたんですね。

 

亀井 昭和30年代、40年代という高度経済成長期であり、商店街がいちばん栄えたころに、僕は少年時代を過ごしました。夕方になると買物かごを提げた主婦が通りにあふれ、向こう側が見えないくらいでした。

 

大学を出ると、宝飾品専門店の全国チェーンに勤めました。バブル絶頂期で、モノがあれば売れる時代に、専門店チェーンのビジネスを学んだのです。このころはまだ商店街に空き店舗はなく、売上げも前年を上回る店ばかりでした。

 

それで「こんなに儲かるのなら自分で商売しよう」と6年勤めた会社を辞め、家業を継ぎました。すると、戻って2年目にバブルが崩壊したのです。

 

——バブル崩壊後、全国の商店街で来街客が減って閉店が目立つようになり、その衰退の様子が「シャッター通り商店街」と言われるようになったころですね。

 

亀井 それから毎年売上げ半減が続き、目に見えて景気は悪くなりました。そんな20代のころ、父が理事長だった銀六商店街振興組合の役員になりました。20代の役員は僕だけでした。

 

バブル崩壊後の10年間に、戸越銀座全体の店舗数は2割も減少しました。そのころの商店街活動では、行政から言われるままに道路舗装や街灯設置などハード整備をしました。大店法緩和の見返りに補助金を出すから、街並みをきれいにして頑張れという政策です。

 

それが一段落すると、季節ごとの集客事業に取り組みました。でも、すでに商店街には地元客は集まらなくなっていました。春のフラワーセールのプレゼント300鉢のうち、お客様にプレゼントできたのは100鉢だけ。残りは道を歩く人に配り、それでも残った鉢を組合員の家に届けていました。イベントの時に役員がつくる焼きそばもかき氷も、大量に残りました。

 

——仮に人は集められたとしても、それがお客様にならないという現象も、従来の商店街イベントでは見られるようになってきたころです。しかし、続いてきたことをなかなかやめられない……。

 

亀井 イベントに集まる人が回を重ねるごとに減っていきます。「もう、こんなイベントやめようよ」って若手から声が出ても、商店街の先輩たちは「代わるイベントがない限りやめられない」と言うばかりでした。

 

それでもまだ、汗をかいてイベントすれば、人は戻ってくると信じていました。さまざまなイベントを試しました。お客様のライフスタイルの変化に合わせようと、他でやっている朝市やナイトバザールを真似しました。しかし人真似だと、お客様が飽きる前に商店街の商人のほうが飽きてしまうのです。1人減り、2人減り、やめてしまいました。

 

 

お客様の厳しいホンネ”で目覚める

 

——このころから、商店街の必要性が疑問視されるようになりました。地域に人は住んでいますが、ライフスタイルが変化している。その変化に合わせようとしない商店街で買物をするのは土台無理なことだ、と……。

 

亀井 共働き世帯も増えたし、学生や勤め人は朝9時に出勤し、帰宅は夜9時。一方、商店街の営業は変わらず朝10時から夜8時まで。勤め人が商店街で買物できるのは週末や祝日だけなのに、商店街は大半が休みというありさまです。大型店やディスカウント店に行けば、品物も豊富で価格も安い。コンビニやチェーン店なら、夜遅くまで店が開いています。

 

——商店街や中小商店の活性化を、今も国は政策として支援しつづけています。しかし、その前に商店街側は、「自分たちの使命は街の人たちの暮らしに貢献することだ」という責任を持って努力すべきですね。

 

亀井 買物するだけなら、商店街でなくても便利な店はいくらでもあるし、ネット通販で何でも揃う時代です。

 

そこで僕は、「せめて人の集まる時には売ろう。イベントを地域のお客様に手伝ってもらうものに変えよう」と提案しました。「日曜日に7割の店が閉まる銀六商店街の店先を開放して、フリーマーケットをしてもらおう」と提案したら、大反対。

 

でも、何とか合意を取りつけてやってみると、1万人ぐらいの人が来てくれ、商店街の先輩たちは「すごいこんなに人が出たのは久しぶりだな」と言ってくれました。徐々に売上げを増やす店が表れ、日曜日に店を開けてくれるようになりました。今もフリーマーケットは毎月続けています。

 

——しかし、イベントは一時的なにぎわいを生んでも、日々の恒常的なにぎわいにつながらない場合もあります。

 

亀井 そこで次に、日常のにぎわいを取り戻すため、固定客づくりを考えました。隣の商店街が実施していたカード事業を一緒にやろうとしたら駄目で、カードで有名な商店街を視察して、イニシャルコストが安い高齢者向けシルバーカードを真似させてもらいました。

 

会員は1000人ほど、店が思い思いのサービスをしました。うちは時計も扱っているから、イベントの時は電池交換を特別価格の500円にサービス。おばあちゃんが腕時計を10個ぐらい持ってきてくれました。

 

当時の商店街の主要顧客は、営業時間に買物に来られる高齢者でした。春と秋に商店街の会場で、津軽三味線、落語を催しました。なじみの店で晩のおかずを買ってくださり、久しぶりに眼鏡をつくろうかというお客様も少しは増えました。

 

でも、いくらやっても、悪くなるスピードのほうが速く、空き店舗は増え、高齢者も全部は商店街に戻ってきません。そんな折、カード会員向けイベントの時でした。500円の金券を配ったら、あるおばあちゃんにこう言われました。

 

「あんたらが一生懸命やっているのはわかる。だけど、こんな金券もらったって、私の欲しいものがあんたたちの商店街に売ってない」

 

たいへんなショックを受けたことをおぼえています。

 

 

商店街にこそマーケティングは必要

 

——私たちは商人である以上、お客様が価値を感じてくださり、欲しくなる商品を扱うことから逃げられません。何を置いても売れた時代はもうやってきませんね。

 

亀井 それまで商店街がやってきた活性化事業は、ハード整備やイベントやカード、共通のサービスなど、「組合員全員のためになる」ことだけでした。「店はお客様のためにある」という、肝心なことが抜け落ちてしまっていたんです。

 

お客様が求めているのは、私の欲しいものがあると思える個々の店です。汚いよりきれい、にぎわっていないよりにぎわっていて、カードにポイントが付いたほうがいいけれど、「欲しいものがない」かぎりは、そういうものも機能するはずがない。

 

そこで、会社にいたころ勉強した市場調査手法を思い出し、「マーケティングに取り組もう」と提案しました。すると、先輩から「コンサルタントみたいなこと言うな」と叱られました。商店街でこれまで、すでにコンサルタントを雇って、さんざんあるべき論を言われて、アレルギーができていたのですね。

 

もっと叱られたのは、「他人の店のことに口出しするな」ということでした。当時、共同チラシに載せる商品写真にも駄目出しできないほど、個々の店に口を出すのはタブーでした。一緒に釣りやゴルフに行く仲間であっても、「店をもう少しきれいにしたら?」と言えません。商店街の商人には、自分の商売についての他人の意見を聞く習慣がなくなっていました。

 

——「店はお客様のためにある」という言葉は、亀井さんも私も学んだ商業界の創立者、倉本長治が遺したものです。倉本は「昭和の石田梅岩」と呼ばれた傑出した商業経営指導者でしたが、倉本の言葉はまさにマーケティングの原点です。マーケティングとは、この思想を実現していくための手段なのですね。

 

亀井 そこで、戸越銀座でしか買えない商品やサービスを提供できないかと、1998年末ごろ、商店街の理事会で「戸越銀座オリジナル商品開発参加のお願い」というタイトルの企画書を配りました。商店街で統一のロゴマークやパッケージデザインを作成して、コンセプトや開発理念、商品説明、商店街の生いたちや背景などを明示して、それぞれの店で販売していこうというものです。それによって、商店街の社会的認知度やイメージアップを目指しました。

 

たとえば、ケーキ屋さん、パン屋さんなどですでにオリジナル商品をつくっている店では、お客様の意向を取り入れた新しい商品を戸越銀座ブランドのコンセプトに基づいてつくってもらい、仕入れ販売店ではコンセプトに見合うような商品をメーカーや問屋さんとタイアップしてプライベートブランド化を模索しようと働きかけたのです。

 

酒屋さんなら珍しい東京の酒蔵で造られる純米酒を、ケーキ屋さんならデパ地下の有名洋菓子店に負けない安心安全の手づくりクッキーを、洋品屋さんならオリジナルロゴマークの入った地元アイデンティティを喚起するようなTシャツやタオルを、それぞれの業種業態に合わせた商品やサービスを提案したんです。

 

——価値ある商品の芽はすでに各店で芽吹いていたのですね。それをオリジナルブランドという意味づけ施せば、お客様への伝播力は高まりますね。ブランディングという言葉がまたまだ一般的ではないころですから、理事会メンバーの反応はどうでしたか。

 

亀井 当然、皆に賛同してもらえるだろうと意気揚々と理事会で提案したのに、逆に叱られてしまいました。「他人の店の商品にまで口出しするな!」とか「売れなかったら誰が責任取ってくれるの?」「オリジナル商品なんていったいコストがどれくらいかかると思っているんだ!」など、前向きな意見は皆無といっていいほどで、「お前は自分の店を棚に上げて他人の店の文句を言いたいのか!」なんて……。

 

それでも理事会のたびに、オリジナルブランドづくりの重要性や効果を訴えました。既存の活性化策だけでは商店街はよくならなかったし、絶対に売れる確信があると協力を訴え続けました。

 

 

商店主の意識を変えた「とごしぎんざ」ブランド

 

——商店街への愛着と危機感が亀井さんを動かしつづけたのですね。私が戸越銀座に注目し、亀井さんと知り合ったのもこのころです。

 

亀井 数カ月の過ぎた1999年春ごろ、酒屋の主人だった副理事長がオリジナルブランドづくりに興味を示してくれるようになりました。当時、酒販業界は規制緩和による酒販免許の自由化を目前に控えて戦々恐々としている時期で、このままでは街の酒屋は消滅してしまうだろうからコンビニエンスストアに業態転換しようか、それとも廃業しようかなどと悩んでいた中、オリジナルの商品でもあれば少しは変わるかもしれないと思ってくれたようです。手はじめに東京の酒蔵から日本酒を取り寄せてリサーチを始めることになり、戸越銀座オリジナルブランドづくりがやっとスタートラインに立ちました。

 

——しかし、商店街はこれまで自家消費用の商品だけを売ってきたから、販売するために説明がいるギフト品を扱うのは、多くの店でほぼ未経験のことでしょう。

 

亀井 そもそも情報発信や広報自体が苦手です。ならば、商店街がパッケージづくりや情報発信・広報を手伝えばいいと思いました。

 

しかし役員会では、「皆の金で個店の品をつくるのはタブー」「売れなかったら、誰が責任を取る」という反論が出て紛糾しました。しかし、やりたいのは企業でいうCI(コーポレートアイデンティティ)、ブランドイメージづくりです。酒屋さんを助けるのでなく、逆に力を借りるのです。

 

地域に暮らす生活者の皆さんにも聞いてみたところ、「欲しい」「お土産に使いたい」という意見が多く挙がりました。ただし、自分たちの勝手にはつくれません。「店主が薦める逸品」が通用するのは、東京の銀座か横浜の元町くらい。信用ある店なら薦めてもいいけど、シャッター通りになりつつある駄目な商店街がよってたかって薦めても、効果ないでしょう。

 

だから地元の人たちを巻き込んで、しつこいくらい試作しました。「戸越銀座」といってもほとんど知名度がありませんでしたから、パッケージに大きく、「商店街が長い」「生鮮品が安い」とアピールしました。それを持って電車や飛行機に乗り、友だちの家に持っていってもらえば広告宣伝効果が上がります。

 

宣伝費を掛けられないから、「とごしぎんざブランドっていう、ちょっと変わったものをやります」と言ったら、新聞テレビ雑誌が取り上げてくれ、たくさんの人が訪れてくれました。試作に付き合ってくれた地元の人たちのクチコミも大きな力になりました。買った人が土産に持っていった先で、「2時間も戸越銀座の話をしちゃったよ」と言ってくれた人も現れました。

 

——住んでいる場所のことは誰だって誇りにしたいものです。そこがふるさとですから。

 

亀井 自慢できれば愛着が湧きます。「なんかテレビや新聞に出ているから」「親戚が買ってこいっていうから」と、地域の人が買物してくれるようになっていきました。ちょっとした土産物なら、営業時間や定休日を調べ、値段を下げなくても買ってくれます。

 

——当時は商店街のオリジナル商品自体が非常に珍しかったために、さまざまなメディアで取り上げられました。戸越銀座商店街は今では全国各地で実施されている商店街ブランドや一店逸品運動の先駆者と言えます。

 

亀井 とごしぎんざブランドには多くの一店逸品事業と大きく異なる点があります。それは、その出発点が産品づくりという発想ではなく、地域そのものをブランディングするという点です。

 

ブランド力のない商店街のお店がいくら店主のお奨めといって商品を販売しても、それを欲しがる人は誰もいません。それをきちんと理解した上で、「戸越銀座」の知名度を上げることを最優先としてブランド事業を進めてきました。

 

統一のロゴをつくり、プロモーションのために地元ケーブルテレビでCMを流し、パッケージには戸越銀座商店街の由来が記されているなど、様々な工夫を施しています。パッケージの完成度を高めることも重要視しており、自家消費分以外の贈答品としての需要に対応し、販売店の売り上げ増加に貢献しています。

 

物品を販売していない店であっても、「戸越銀座の電気屋さん」「戸越銀座の洗たく屋」など、戸越銀座と名前が付いている店もあって、とにかく「戸越銀座」という地名が露出するような取り組みを数多く行ってきました。

 

――そうしたマーケティングに基づいた広報戦略が今日、多くのメディアに取り上げられ、戸越銀座商店街が全国区の知名度を得るようになり、商圏内外からの多くの来街客でにぎわうターニングポイントとなったことがわかりますね。

 

亀井 近年、商店街に観光を目的として来訪するお客様が増加しており、ますますお土産品としてのニーズが高まってきています。現在、とごしぎんざブランドは20店で50品目ほど扱われています。

 

 

コロッケによる商店街イノベーション

 

――商店街というのはそもそも、そこを訪れるお客様に役立ち、喜ばれる存在でなければなりません。「商店のための街」という発想から「お客様のための街」という発想への転換が大切です。そのためには、お客様の声に敏感ではなくてはなりませんね。これもまた、店はお客様のためにあるために欠かせませんし、マーケティングと広報の出発点です。

 

亀井 とごしぎんざブランドが知られるようになると、電車やバス、車で来る土日祝日の来街者が増えました。しかし、帰ってからネットで彼らが書いたブログをチエックすると、「つまんなかった。テレビで言っているほどじゃない」という声がありました。次はこれをどうにかしたいと考えたのです。

 

すると、そんなブログの中の一つに「コロッケの食べ歩きをしたらおいしかった」と書いてあったのです。たしかに戸越銀座の商店街全体に、コロッケを売る店が転々と散っています。それで、長い通りをいろんなコロッケを食べ歩いて回ってもらう「戸越銀座コロッケ」を思いつきました。

 

――とごしぎんざブランドを発案して育てた亀井さんのアイデアですから、今度はすぐに賛成が得られたのでしょうか。

 

亀井 ところが、商店街のみんなには「今さらコロッケなんて誰も注目しない」と2年間反対されました。そんな折、地元にある立正大学経営学部の池上和男教授と知り合いました。池上先生の研究室の学生さんたちにコロッケの話をすると、「面白いからやりましょう」と言ってくれて、7軒の店が手を挙げてくれました。

 

――イノベーションは若者、バカ者、よそ者から始まると言われますが、商店街活性化にとっても彼らの力が必要ですね。商店街が本当に変わりたければ、彼らが参加しやすいようにしなければなりませんね。

 

亀井 コロッケがどこに売っているのかがわかるようにのぼりを立て、地図も配りました。新聞やケーブルテレビに宣伝すると取り上げてくれて、また外から人が来てくれ、特に若い人が増えました。

 

地元の人も「最近、なんかコロッケで有名になっちゃって不思議よね」って買いにきます。土日祝日にはたくさん人が押し寄せて、団子も売れれば焼きとりも売れる。うちの前ではせんべいも売れるようになりました。

 

当初、7軒のお肉屋さんやお惣菜屋さんを巻き込んで始まった「戸越銀座コロッケ」でしたが、おでん 屋さんのおでんコロッケ、ラーメン屋さんの餃子コロッケ、お蕎麦屋さんの蕎麦の実クリームコロッケ、 洋食屋さんのフォアグラコロッケ、居酒屋さんのまぐろのホホ肉コロッケや梅コロッケなど、さまざまな お店のアイデア満載のコロッケも仲間に加わり、20種類を超える「戸越銀座コロッケ」のラインナップ が揃い、戸越銀座は「コロッケの街」として認知されるようになったのです。

 

 

商店街こそ広報が必要な理由

 

――商店街がさまざまなイベントや活性化事例を仕掛けても、それだけではメディアは取り上げてくれません。マスコミ側からすると、誰に問い合わせたら満足のいく取材ができるのかがわからない。商店街事務所が存在したとしても、情報が共有されていなったりすることが多く、せっかく取材してニュースにしようとしても満足のいく資料やインタビューが得られない。その点、戸越銀座商店街は亀井さんが「広報」としてはっきりしています。

 

亀井 「戸越銀座を全国的に有名にしよう!」「日本一住みやすい街を目指そう!」というスローガンを掲げ、戸越銀座の3つの商店街が初めて結集した「とごしぎんざまつり」が始まったのは1998年のことでした。これをマスコミにニュースとして取り上げてもらおうと、初めてプレスリリースを出しました。各マスコミの連絡先を調べ「とごしぎんざまつり」開催の経緯や日時対応担当者の連絡先を明記してFAXを送り続けたのです。

 

するといくつかの媒体が開催をニュースとして取り上げてくれて、イベント当日は全国ネットのテレビ局が1社、中継してくれました。わが商店街のイベントに全国ネットの中継カメラが入り中継してもらえるなんて、当時の実行委員会のメンバーはとてもやりがいを感じて大喜びでした。

 

――その後取り組まれた「とごしぎんざブランド」でもプレスリリースによる宣伝効果は大きかったですね。

 

亀井 ええ、マスコミに露出することは費用対効果が大きく、潜在的な経済効果には計り知れないものがあります。もっと効果的に情報発信やプレスリリースをするにはどうしたらよいかという模索が始まりました。

 

そこで当時、戸越銀座銀六商店街単独で運営されていた商店街のホームページを、戸越銀座商店街連合会で運営するポータルサイトとして再構築し、情報発信することにしました。2001年に「戸越銀座ネット」としてスタートしたポータルサイトは、2008年のリニューアルを経て管理者の設置と情報発信を強化し、お客様やメディアからの問い合わせ窓口を本化するなどした結果、現在では1日のアクセス数は5000ページビューを超えるまでになっています。

 

――現在ではほとんどの商店街がホームページを持つようになりました。しかし、その多くが情報更新の頻度の低い、いつ見ても変わり映えしないものばかりです。ホームページという「箱」があればいいのではなく、そこに入れられる情報の鮮度と頻度、そして個性こそ必要です。戸越銀座商店街のホームページにはそれがありますね。

 

亀井 戸越銀座ネットや商店街活性化事例によるニュースなどの情報発信が功を奏し、さまざまな媒体から問い合わせが増えてくる中で、商店街を舞台にしたドラマや映画、アニメーションの制作などの話が寄せられるようになっていきました。一般に、地方公共団体や観光協会などは、そうした撮影を支援することによって地域活性化や観光振興を図るために「フィルムコミッション」を設立します。商店街でもそのような機能や窓口の必要性が急務だと感じて、自ら広報担当を買って出ました。

 

小さな近隣型の商店街がエリアで連携してスケールメリットを模索し情報発信をした結果、得られた効果は日本全国の人々の目にも届く形となって表れていきました。地域をブランド化していくことで多くの人たちの目に留まり、想像をはるかに超える結果を生み出しています。

 

――これからも全国的に見れば、消えていく商店街は多いでしょう。でも、地域に「自慢できる」と思われる商店街は、厳しい淘汰を免れうるのではないでしょうか。商店街を、お客様にも「大切だ」と感じてもらえれば、それは大きなことです。

 

亀井 活性化とは、商店街が一度失った地域の人の信頼を取り戻す過程なのだと思います。取り戻すには時間がかかります。ですから、徹底して「欲しいものがある」商店街に変えていく必要があります。そのためには商店街活動でも、「商店街は商人の街」でなく「買物をする人たちの場所」であることを具体化し、発信していく必要があるのです。

 

――まさに同感です。ありがとうございました。

 

 

【メルマガ「商いの心」のご案内】

 

ひとに笑顔を
事業に未来を
地域に活力を

 

週に一度、メールマガジンをお届けしています。

 

そこには、いろいろなことが書きつけてあります。その中のどれか一つ二つは、すぐ今日あなたの商いに役立つでしょう。もう一つ二つはすぐに役立たないように見えても、やがて心の底深く沈んでいつかあなたの商いを変えるでしょう。

 

このブログを良かったと感じていただけるなら、メルマガもぜひご覧ください。こちらより登録いただけます。

この記事をシェアする
いいね
ツイート
メール
笹井清範

笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

新刊案内

購入はこちらから

好評既刊

売れる人がやっているたった4つの繁盛の法則 「ありがとう」があふれる20の店の実践

購入はこちらから

Social Media

人気の記事

都道府県

カテゴリー