今回は取材準備の話から――。
取材にあたっては事前に情報を集め、記事主題の仮説を立て、質問事項を思いつく限り列挙します。それらに優先順位をつけ、最も重要だと考える質問を、取材中の最適のタイミングで聞くようにしています。
岩手県陸前高田市、大船渡市をドミナントとする食品スーパー「マイヤ」の米谷春夫社長(現会長)を東日本大震災後にインタビューする機会を得たときも、私はいつものように準備に取り掛かりました。
震災により16店舗のうち6店舗が全壊もしくは半壊により営業停止に追い込まれ、およそ1100人の従業員のうち11人が亡くなり、5人は行方不明とのこと。ご本人も家を流され、母堂はいまも行方不明であることがわかりました。
愛する故郷のため
「震災により多くのものを失われましたが、得たものはありましたか?」というのが私の考えた最も重要な質問でした。ひどい質問だと我ながら思いました。
しかし、私はどうしてもこれだけは聞いてみたかったのです。それは、次の一文に触れ、二つの事実を知っていたからです。
「このような非常事態だからこそ、食のライフラインを支える使命を重く認識し、できるかぎり精一杯の商品供給に努めております。愛して止まないふるさと・岩手の暮らしを守るため、従業員も必死に頑張っています。失くしたものをいつまでもくよくよせず、残されたものに希望を託して、一日一日スクラムを組んで乗り越えていきましょう」
大地震からわずか1週間後、同社のホームページに掲載された米谷社長のメッセージです。これが一つめの事実です。
もう一つの事実とは、大船渡市内でかろうじて建物が残った大船渡インター店では、地震発生からわずか1時間ほどで営業が再開されていたことです。電気、ガス、水道は止まり、店内も天井の一部が崩れ、しかも米谷社長は折しも東京に出張中にも関わらずです。
店内の営業は無理でも、店頭ならできる――そう考えた従業員は店前駐車場にワゴンや会議机を運び、電池、ろうそく、カップラーメン、缶詰、水など、まだ寒さが厳しい東北の夜を着の身着のままで過ごさなければならない人たちが求める商品を販売したそうです。
日が暮れて暗くなると、従業員の自動車のヘッドライトで売場を照らして22時半ごろまで営業を続け、翌日も朝6時から店を開け、被災者のまさに生命線としての役割を担いました。その後も、同社は仮設店舗と移動販売車によって被災地で営業を続け、地域の暮らしを守っています。
天が与えた機会
こうした同社の取り組みを、多くの取引先が支えました。同社の加盟する地域食品スーパーの協業組織、シジシージャパンでは、震災発生5分後には対策本部を設立、翌12日午後には飲料水やカセットボンベなどの緊急対応商品を積んだ10トン車をマイヤの元に送り届けています。
私の質問に、米谷社長は次のように答えてくれました。予想を超えた回答に出合えるとき、それが取材者の喜びです。
「お客様からの信頼、従業員同士の絆、お取引先との連帯感、これらがさらに強まりました。50年前に父が創業したときは何もありませんでした。天が与えた再創業の機会に、私は多くの宝に支えられています」
このたびの令和6年能登半島地震でも、多くの商業者が被災され、事業存続の危機に立たされていらっしゃることでしょう。だからこそ、この記事を読んでいただければ幸いです。