地震発生から1週間、死者は100人を超え、安否不明も200人以上を数える令和6年能登半島地震。1月6日、甚大な被害が生じた石川県輪島市で、あるスーパーマーケットが営業を再開したというニュースがありました。
これまでの過去に起こった自身において、多くの商人たちが暮らしを守るために、いち早く店を再開させてきました。2016年4月、熊本一帯を襲った大地震のときのことです。
4月14日夜9時26分、震度7の地震が発生した時、地元スーパー「スーパーみやはら」の橋本憲明さんは、市内の自宅で家族とともにくつろいでいましたが、家族を近くの公園に避難させると、店長を務める東バイパス店へと急ぎました。深夜11時ぐらいに店に到着すると、すでに4人のスタッフがいたそうです。
商品が床に散乱し、足の踏み場もない状態でしたが、皆で復旧作業にあたり、翌15日の朝、何事もなかったかのように定刻どおり朝10時に店を開けました。 「こんなときこそ店を開けなければ」と橋本さん。休んでも仕方がないという考えはなかったといいます。
それもつかの間、その深夜に、再び大地震が熊本を襲いました。おびえる家族を連れて店に着くと、同じように避難を兼ねて店にやって来た2人のスタッフと会うことができました。店内の惨状は14日の比ではなく、電気、水道、ガスのライフラインがすべてストップしていました。
それでも店を開ける意思に変わりはありませんでした。スタッフとともに懐中電灯を持って店に入ると、水、カップラーメン、缶詰めなど、お客に求められそうなものを運び出し、店の前に長机を並べ、朝8時半から販売を始めました。
電気がないためレジは使えません。電卓で計算する必要があったため端数を切り捨て、50円、100円など簡単な価格にして販売しました。
17日、18日も同じように店頭販売を続けたところ、店の周りを囲むように列が伸びていきました。周囲のほとんどの店はまだ営業を再開できずにいたのです。
19日には電気が回復、売場を階下の駐車場に移すことにしました。屋内の駐車場なので店頭と比べ広くスペースを使え、雨もしのげます。商品をあちこちに積み上げ、カーゴ車を利用して店内と同じような“売場”をつくりました。電卓での計算は続きましたが、お客にとってはずっと買いやすくなりました。
21日には階上の売場にあった冷蔵ケースを駐車場に下ろし、冷蔵品をはじめ、肉、魚の販売も再開。青果はすでに販売を再開しており、これで生鮮三品が揃いました。
27日には水道が回復し、厨房での作業が可能になると、同店の名物である「250円弁当」をつくり始めました。「毎日毎日、昨日よりも今日は少しだけでもお客さまのためになることをやろうと続けていきました」とは同社の宮原るみ常務(現在は社長)。
「店はお客様の為にある――これが当社の社訓です。だから、こんなこときこそ店は開かねば」という言葉のとおり、各店の店長やスタッフたちは自分の家の収拾もつかないうちに店に駆けつけ、一刻も早く店を開けようとしました。そして事実、地域で一番早く店を開けたのです。
「『まだどこも閉まっているのに、開けてくれてありがとう』というお客さまの言葉が今でもはっきり記憶に残っています。それが一番嬉しいですね」と、橋本さんはお客の声に胸を熱くしたそうです。
いかなるときでも地域の生活を守る――店にはそんな崇高な役割があります。「店は客のためにある」とは、そういうことなのです。