笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

今どきホームページもないなんて、期待しないほうがいいかな……。

 

そんな思い込みをみごとに覆される体験をしました。長野県須坂市での講演で、商工会議所のご厚情により、一泊の宿を世話してもらったときのことです。

 

明治から昭和初期にかけて製糸業で栄え、往時の繁栄を偲ばせる土蔵や大壁造りの商家が残る「蔵のまち」須坂市。市内を流れる仙仁川沿いの前庭から冠木門をくぐると、趣ある橋の向こうに一軒の宿が穏やかな灯りに映えて見えてきました。

 

橋をわたると、なぜかほっとした気持ちになったことをおぼえています。すぐ後に「日本一予約のとりにくい宿」であることを実感する「仙仁温泉岩の湯」との出会いです。

 

創業は1959年。「普通の素朴な山の温泉宿でした」と、2代目の金井辰巳さんは振り返ります。先代から経営を受け継いだのが1978年。熱海や別府などの近代的な大型温泉旅館がもてはやされた時代です。

 

 

時代の逆を行く心の理想土を追求

 

転機は1980年代末、世はバブル真っただ中にありました。全館改装に際して、金井さんは宿泊業の理想を求めて各地を視察したそうです。その行き先は海外にも及びました。そうして確信したのが日本の風土に合った独自固有の「理想土(リゾート)」の追求することでした。

 

「どこにでもありそうな高級な建物、料理、サービスとは一線を画した、岩の湯にしかない施設、環境、温泉、料理、サービスをもってお客様の人生に役立ちたい。理想土という心のふるさとを目指そうと決意しました」

 

多くの宿がカラオケやゲームを導入し、コンパニオンを活用する路線と決別。「素朴な山の宿らしくありたい」と、金井さんは他社と異なる道を選びました。

 

「美女にライバルが薔薇を10本贈ったら、君は15本贈るかい? そう思った時点で君の負けだ」とは、アップル創業者のスティーブ・ジョブズの言葉として知られています。一時期は自らが創業した会社を追われるものの、時代を画する商品「iMac」で同社を復活させ、その後のiPod、iPhone、iPad、iWatchと革新的な商品を生み出した天才はこう続けます。

 

「女性が本当に何を望んでいるのか、見極めることが重要なんだ」と続きますが、金井さんの実践はまさにそれでした。

 

土地の個性を生かすために敷地は傾斜地のままに、樹齢35年以上の木は伐採せずに建物を建築。それゆえ、館内のどこにいても信州の森に抱かれている心地がします。館内には書斎やテラス、サンルームが設けられ、本を読んだり、手紙を書いたりと、客室以外の思い思いの場所で自由に寛げます。それは他では味わえない贅沢な時間です。

 

宿泊予約は、月ごとに11カ月前の1日の午前8時(1月のみ3日の午前10時)から電話で受け付けるのですが、すぐに満室になるといいます。ホームページがないのは、電話で直接会話を交わしながら、最適なサービスにつなげていくためだったのです。

 

 

客室稼働率95%超、リピート率70%超

 

コロナ禍で打撃を受けた観光需要が回復する中、宿泊業界は働き手の確保に苦慮しています。企業信用調査会社、帝国データの調査によると、約7~8割のホテル・旅館が人手不足に陥っているといいます。

 

多くのホテルや旅館はコロナ禍に従業員を減らし、自らの生き残りを図りました。結果、観光客が戻ってきた現在、今度は需要増に人手が追いつかないでいるところが少なくありません。需要を取りこぼすばかりか、サービスの低下から顧客満足度を著しく下げているのです。

 

しかし、岩の湯は違いました。2020年度はコロナ禍の影響から売上を落とすも、翌年度からはすぐに回復。「経営の目的は社員の幸せにあります」という金井社長の経営哲学に、その理由はあります。

 

客室数は18室。そこに同規模の宿の優に2倍ほど、岩の湯には60名を超える社員がいます。それゆえ社員は土日も自由に休め、個人の都合に合わせて早退、中抜け、時短勤務が可能な環境にあります。

さらには年末年始、7月の夏休み、3月から4月の春休みなど、本来は書き入れ時の時季に年間40日ほど全舘休業します。その理由を金井さんは「家族にとって大切な日は、一緒に過ごせるようにして上げたい。自分が幸せでなければ、お客様にいいサービスはできませんから」と言います。たしかに岩の湯で接する社員の誰もから、あたたかい情けと癒しを受けることができました。

 

昭和の石田梅岩と言われた経営指導者、倉本長治の教えを説いた一冊『店は客のためにあり店員とともに栄え店主とともに滅びる』にあるように、倉本は「店は客のためにある」と言い、「店員とともに栄える」と続けました。

 

間違えてならないのは、店員とともに栄えてこそ、店は客のためにありうることです。店が客のためにあるためには、店員とともに栄えなければなりません。顧客と社員、関わる人すべての「幸せをアートする宿」で、あらためて気づかされました。

 

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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