ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が「私の座右の銘はこれ以外ない」と明言する一文がある。店は客のためにあり、店員とともに栄え、店主とともに滅びる――とは、「昭和の石田梅岩」と言われた経営指導者、倉本長治のものである。
倉本はその生涯を通じて、じつに多くの商人を導き、育てた。それゆえ、人は彼を「日本商業の父」ともいう。倉本長治の教え子たちの系譜を『店は客のためにあり店員とともに栄え店主とともに滅びる』に見ていこう。まずは「流通革命の旗手」と言われた商人である。
商売人から興り、商人をめざした男
もうからぬ商売を恥じよ――倉本長治さんの言葉。
「もうけない商売に誇りを持っても、もうからぬ商売を恥じよ」
この一言に「店は客のためにある」という先生の思想がある。
ビジネスとしての効率性の追求、そして「君は商売で泣くことができるか」。
理想と日々の商いの両立。
年末が近づくと、先生からの電報、ダイエーが日本の小売商として一日1億円の売上を達成した日の先生からの祝電……。
先生は今、箱根にねむる。
この一文の出典は、1993年9月23日発行の株式会社ダイエー調査室編集・発行の小冊子「For the Customers」。書き手はもちろん戦後を代表する稀代の商人、ダイエーCEOの中内功である。「よい品をどんどん安く」を旗印に消費者主体の流通システムを一代で構築し、「流通革命の旗手」と言われた中内もまた、倉本長治の教え子だ。
この小冊子の冒頭「はじめに」で、中内は「現状に甘んじて、変化への対応を怠れば、ダイエーグループに明日はない」と記している。現に、1995年に創業以来初の赤字決算から経営危機に陥り、2004年に産業再生法の適用と産業再生機構からの支援を受けることとなった。
しかし、中内が残した功績は色あせることはない。こんなエピソードがある。
商人と商売人――中内はこの二つの言葉を、次のように明確に使い分けた商人であった。
「商人とは、社会を変えてやろうという大きな志を抱いて事業を興す人であり、まったく何もないところから、世の中をも変えてしまうような新しい事業を創造する人をいう。一方の商売人とは、己の会社の利益のみを追求する人であり、社会を変えるような新しい事業を興そうという志とは相容れない」
中内のこうした信念を証明する出来事がある。
1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こった朝、ダイエーは政府に先んじて災害対策本部を設置。中内は陣頭に立ち、民間企業の役割をはるかに超える執念と速度でライフラインを死守した。
また、その年の春、ダイエーの入社式で中内はこんな発言をしている。
「かつてのマーチャントはシルクロードを歩き、大航海時代を経験してきた。単にモノを運ぶだけでなく、文化・文明をつくり上げてきた。我々もマーチャントとして単に生活必需品を売って稼ぐだけでなく、この国における新しい文化、新しいモノの考え方をつくることに貢献することが大事である」
ほとんどの人が商売人として出発し、そこに安住する。商人への険しい道を進んでいこうと努めるのは一握りだ。しかし、中内は間違いなく、たとえ志半ばで倒れようと、商人であることをめざした男だった。
中内は1957年、大阪・千林商店街に医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」を開店。1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高日本一を達成する。
中内は倉本との出会い、そしてその人柄と教えについて、1982年に刊行された『倉本長治追悼写真集』に次のように記している。その2年前、1980年に日本で初めて小売業界の売上高1兆円を達成していた。
「流通革命の旗手」から亡き師への哀惜の言葉
「大阪で、薬を安売りしている、けしからん奴がいる。薬は、人命に関わる神聖なもので、それを大根や菜っ葉みたいに安売りするとは、けしからん」
この記事によって私は、「商業界」を知った。けしからん雑誌だと憤概し、倉本先生に文句を言おうと思って、商業界ゼミナールに初めて参加した。お会いしてみると、先生は非常に革新的な考え方の持ち主であることがわかった。私の憤慨した記事は、先生の書かれたものではなかった。
「薬も食料品も、人間の口から入って、美と健康に関わるものであるから、両者に何らの差もないではないか。薬を安売りしたら、中味が悪くなるというのは、理論的におかしか」という私の考え方に、先生は全面的に同意された。一生想い出深い人の一人、倉本長治先生との出会いは、こうしたきっかけで始まった。
昭和26年から箱根で始められた「商業界ゼミナール」は、商業者にとって画期的なセミナーであった。それまでは、前垂れをかけ、揉み手をして、「ありがとうございました」と言うことだけだとされてきた商人の道に対して、先生は、革新的な商人道を作り上げられた。
これが我々商業者にとって、精神的なバックボーンとなった。箱根のゼミナールに参加し、あの熱気の中から、今日のダイエーをつくりあげてきた。先生にうけた筆舌につくしがたい御恩に対し、御礼の言葉もない。
先生を、単なる精神主義者と誤解している人が少なくないのは残念だ。先生は、非常に合理的な精神の持ち主であった。例えば先生「店は客の為にある」と言われたのは、単なる精神主義的ではなかった。
客が代金を支払うために、わざわざ奥まで行くのはおかしい。店主が、店頭第一線にいて、お金をいただかなくてはならないといった、具体的なこと、技術的なこと、そして、合理に徹したことを言われていたのである。
先生が、最も大切にされたことは、革新性であり、小売業が産業化していくことに対するロマンであったと思う。先生自身は、近代化への自助努力をしない商人を非常に嫌われた。大規模小売店舗法の問題に関して先生は、小規模店を単に保護しようということはおかしい。やはり、自由競争の原則を貫くべきだ、ということを言われていた。
一方で、ビッグストアが、革新性を失ってきたかと、時々お話になっていた。「ビッグストアが、革新の担い手となって、日本の流通の近代化に力を尽していく。そして、本格的なチェーンストアとして、小売業を産業化するというロマンを実現する」ということに、先生が期待を持たれていたと、今、痛感する次第である。最後まで、大店法に関し、御心配をおかけしたことについて、たいへん申しわけなかったと、反省している。
先生に対する最後の思い出となるのは、昨年の商業界ゼミナールで、基調講演をさせていただいたときだ。先生が中国の古典から選ばれ、常日頃言われていた、「道を行わんとする者は非道を行うべからず」というスローガンに対し、高島屋問題で少し感情的になっていた私は、「道を行わんとする者、敢えて非道を行うべし」と先生に対して、挑戦的な基調講演をした。
中内功にとって歩いた後に道がある。我々の前に道はない。孔子の言ったように、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という、それだけの壮絶なる生きざまがないと、道というものは歩めない、と激しい言葉で話をした。
あとで聞けば、楽屋裏で先生は、ニヤニヤ笑いながら聞いておられたそうである。さすがに先生だと思った。先生の教えを受けたひとりとして、先生の言葉でなしに、その精神の一部を、私が体得したということで、喜んでいただいたのではないかと思う。
先生には、ダイエーの主催する1兆円達成祝賀パーティーやその他のパーティーにも、いつも出席していただき、我々を、身をもって激励してくださった。(後略)
中内と柳井、ともに抱く一つの教え
今日、倉本長治も中内功も故人となって久しい。そして両者がつくった商業界もダイエーもない。
鎌倉時代の随筆家、鴨長明が言うように「諸行は無常であり、世のすべてのものは移り変わり、生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないのだ。
しかし、人は死んでも、遺した真理は生き続ける。
事実、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」という書き出しで始まる町名の『方丈記』は、名作として後世に残る。そこに、今を生きる我々にも響く教えがあるからだ。
柳井は倉本の教えを、解説を寄せた『店は客のためにあり店員とともに栄え店主とともに滅びる』で「純度の高い結晶のような言葉」「商いの真理」と表現している。
真理はそれを求める人を導き、道を示す。柳井正もまた、中内功と同じように、倉本の思想の中に自らが進むべき道を見いだした男だった。
2005年12月5日、東京都千代田区にあるホテルニューオータニ。政財界をはじめ各界およそ2300人が参集した中内功お別れの会で、柳井はこう惜別の辞を述べている。
「中内さんはいろんな言葉を残されましたけれども、その中でいちばん有名なのが『よい品をどんどん安く』という言葉です。この言葉は小売業の永遠のモットーなのではないかと思います。小売業者にとって、中内さんは一つの目標だったわけです。次に中内さんがどんなことをされるのかということが、すべての小売業者の興味の的だったと思います」
中内と柳井。ともに倉本の教えを実践する同志であった。さらに、「服を変え、常識を変え、社会を変えていく」というファーストリテイリングの理念に見られるように、柳井もまた「商人」であることをめざしている。
では、中内は何を残したのか。その一つに「流通科学大学」がある。中内は流通科学大学創設の想いを次のように述べている。
「かえりみれば、かつての戦争は資源の取り合いが大きな要因となっていました。第一次大戦は石炭、第二次大戦は石油。私たちは、悲惨な戦争を三度と起こさない仕組みを、新しい世紀に向かって考えていかなければなりません。流通を通して、人、もの、情報を交換し、互いに理解しあえば、戦争なんて手段はとれなくなります。流通科学大学は、開かれた大学として、また科学としての流通を、解明していこうと考えた結論です」
こうして1988年春に流通科学大学は兵庫県神戸市に開学。かつてこの地には、坂本龍馬が塾頭を務めた神戸海軍操練所があった。武家社会では卑しまれていた「利」を評価し、経済的な利益こそが社会を動かすことを熟知した志士であった。「もうからぬ商売を恥じよ」という倉本の言葉を愛した中内が、神戸を選んだ理由かもしれない。