その飲食店では、夜もまだ明けやらぬ午前4時から厨房が動き出します。まな板に向かった店主は、若い職人の卵たちに長年にわたって培ってきた技術を伝承しながら、その店の主要食材であるうなぎを約20キログラム、数にして約400匹を華麗かつ手際よくさばいていきます。
その店とは、東京を代表するうなぎの銘店「野田岩」。創業は第11代将軍徳川家斉の治世、寛政年間というから200年以上続く老舗です。店主とは野田岩の五代目、金本兼次郎さん。「昔は30キロ、600匹はさばいていたよ」と笑顔で語る金本さんは94歳。
幼いの頃から父である四代目の下で修業に明け暮れ、戦争で店を焼かれながらも、父と共に商いを守り、五代目として店を継いだのは30歳のときのこと。以来60年以上にわたって商人として経営にあたり、職人として老舗の味を高めてきました。
技術を磨き正しく商う
なぜ、それほど長きにわたって現役の職人として調理場に立つのでしょうか。その理由を金本さんこう語ってくれました。
「昭和から平成へ、そして令和。共に高みを目指して商売に励んできた仲間の多くは、すでに現役を退いていきました。後継者に店を任せて引退するのも一つの生き方です。しかし、私はその道を選びません。次の世代にバトンタッチするのではなく、彼らと一緒に歩んでいくことが、人を育て、繁盛店としてお客様に愛され続けることにつながると信じているからです」
だから金本さんは今日も、早朝からまな板に向かうのだと言います。それは人を育てるためでもあります。
「職人として技術を磨き、それを若い世代に伝えていくこと。自分が仕事をしている姿を見せることが、僕は一番の教育だと思う。商人として正しく商い、店を損得ではなく運営すること。経営者として従業員を育て、店の将来を考えること。これらはすべて、回り回ってお客様のためになることです」
職人として技を養い、商人として正しく商う。こうした営みの積み重ねがお客様のためにあることを、野田岩の繁盛ぶりが証明しています。
理想を失うとき初めて人は老いる
一方、経営者の高齢化が業績の悪化をもたらすという指摘もあります。企業信用情報会社の東京商工リサーチの調べによると、減収企業の社長を年代に見ると60代が48.8%でトップであり、70代以上が48.1%と続きます。また、赤字企業は70代以上が22.3%で最多となっており、「高齢社長に業績不振が多い背景には、長期的なビジョンを描けず、設備投資や経営改善の遅れが横たわる」としています。
しかし、これはあくまで平均値の話であり、経営者一人ひとりに焦点を当てれば事情は異なります。人は平均値にくくられるほど、簡単なものではありません。
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」という書き出しで始まるアメリカの実業家であり詩人、サムエル・ウルマンの詩「青春の詩」にあるように、年を重ねるだけで人は老いません。理想を失うとき、初めて人は老いるのです。
・常に同じ仕事をする
・仕事に“美しさ”があるか
・仕事を“作業”にしない
これらは金本さんが常に心掛けている仕事の流儀。そこには、今日は昨日よりもおいしくつくろう、明日は今日よりももっとおいしくつくろうと、常に高みを目指して挑戦し続ける精神があるように思います。
「歳を重ねるということは素晴らしいことだ。これまでの経験を生かしながら、後ろを振り返り、前を見て進んでいくことができる。生涯現役、生涯うなぎ職人、これが私の生き方です」という金本さんの生き方がウルマンの詩の正しさを教えてくれます。