JR東日本の新幹線社内誌「トランヴェール」は、北へ向かう新幹線に乗ると必ず目を通す一冊。ノンフィクション作家、沢木耕太郎さんの連載コラム「旅のつばくろ」はいつも何かしらの気づきを与えてくれます。第72回「記憶のかけら」もまたそうでした。
ある日、沢木さんは日光への旅の途中、日光線鹿沼駅を過ぎたところで「記憶のかけら」が脳裏によみがえります。それは大学生時代、長い休暇のたびにアルバイトをしていた日本橋の百貨店でのできごとです。
政治家や経営者といった上得意客宅へ、たびたび進物を届けに行っていた沢木青年は、そうした家の人々のアルバイト学生に対する扱いが、実に様々なであることを知ります。中には、露骨に横柄な態度をとる書生やお手伝いのいる家も少なくなかったそうです。
そんなある日、ある家を訪ねると、奥から初老の老人が玄関口に現れました。その家の主らしい男性は、ごく普通の口調で「ごくろうさま」と言って品物を受け取り、沢木さんに玄関口で待ってもらい、奥へと戻ったそうです。
そして「よかったら、これを貰ってくれますか」と小さな箱を沢木さんへ渡しました。訳がわからないまま礼を言い、職場に戻り報告すると上司は「それはお使いの御駄賃だから、いただいておきなさい」とひと言。
箱を開けると、そこにはイタリアの高級ブランドの靴下があったそうです。そのときのことを沢木さんは高級品を貰った嬉しさよりも、「あの初老の男性の、アルバイトの学生に対する物腰の柔らかさに強く感動していた」と記し、コラムの最後をこう締めくくっています。
〈私が人に会い、人から話を聞いたり、話をしたりするということを中心にした仕事を続けてきた中で、もしひとつだけ心がけてきたことがあったとしたら、それは誰に対しても同じ態度で接するということだったような気がする。人によって態度を変えない。たとえどれほど「偉い」人であっても、あるいはそうでないように思われる人であっても、同じように接する。
もしかしたらそれは、単に仕事の上のことだけではなく、私の生き方の基本のようなものになっていたかもしれない。その生き方における大切な心構えは、驚いたことに、ほんの数分だけ会ったにすぎない、井深さんの影響だったかもしれないのだ……。〉
その男性とはソニーの創業者の一人、井深大さんだったそうです。井深さんの人柄から学ぶことが多いばかりか、沢木さんの数分間のやりとりから学んだ姿勢に学んだコラムでした。
商いもこうした一期一会の積み重ねです。物のやりとりにおもいやりや真心を添えるとはこういうこと。あなたがおもいやりや真心を尽くせば尽くすほど、あなたのところへはそうしたお客様が集まってくるでしょう。