久しぶりに自宅で過ごす休日。庭先の落ち葉を掃くと、そのまま近くの公園まで散歩しました。青い芝生がまぶしく光る広場にはこの季節、いつもなら鉄骨の櫓が建てられ、その周りをぐるりと囲むように屋台が祭りの準備に忙しくしているはず。今年も夏祭りはお預けです。
長男と次男がが幼いころ、夏祭りは彼らの社会体験の場でした。櫓が組まれ、ちょうちんが飾られていく様子を飽きずに眺め、祭りが始まるや人いきれする雑踏にもまれながら、お目当ての屋台で買物をしてはそれを見せ合い、互いの収穫を自慢していました。
彼らに与えられた小遣いは限られてはいたものの、欲しいものは数多くあったようです。それをどうやりくりするかを含めて、彼らは買物を通して大人の社会と向き合い、何かを学んでいたのでしょう。買物とは自己表現であり、その人柄を色濃く反映するものです。
この「人いきれ」という言葉の響きが私は好きです。いきれとは感じで「熱れ」と書き、熱気でむっとするという意味を持つ大和言葉です。草いきれ、なんていうものいいですね。草の香りがしてきそうです。
大和言葉ではありませんが、「店」という言葉も心地よい響きです。そもそもは「見世棚」と書き、棚が省略されていきました。つまり、店とは「見せる棚」を語源としています。
では、何を見せるのでしょうか。語源にあるように「世」を見せるのです。世とは、人間が生活を営む“場”であり、そこに流れ積み重なる“時間”であり、そこでふれあう人どうしの“交流”にほかなりません。
私はそれらをひっくるめて、見せる者の世界観であり、在り方だと理解しています。つまり、店とは単にモノとお金を交換する場所ではありません。店とは金儲けのみを目的とする場所ではないのです。
商業界創立者、倉本長治は、商いと金儲けの違いをこう断じています(『店主読本』)。
「商売は一品売るごとにお客の喜び、お客の満足が永久に長く続く性質を持つ。金儲けには、このような心の満足を相手方に与えることがない。そこに商売と金儲けの大きな開きを見るのである」
取材を通じて親しくさせていただいている繁盛店の商人の皆さんの多くは、まさにこうした商いをされています。彼らはその土地に店を構え、しっかりと根を張り、世代をつないで、己の世界観を商品やサービスに込めていました。そこには単にモノを超えたコトがあり、モノガタリがあり、生き方があります。
生活者にとって、そうした心あたたまる商いがそばにある暮らしは豊かです。そうした商いを守り、広げていくことが私のミッションです。拙著『売れる人がやっているたった四つの繁盛の法則』は、そんな思いを込めて書きました。
ウォーキングをしながら考えたのはおおむねそんなこと。夏祭りはありませんが、人の営みは続きます。ここでも、あそこでも。だから、身心の健やかさを保ちつつ励んでほしいし、ぼくもまた励みたいと思うのです。