「三白」と言われ、砂糖、卵と共にスーパーマーケットで特売の目玉商品として安売りされる豆腐。どのメーカーの商品も個性(personality)を失い、消費者にすればどこのメーカーのものを購入しても大差がなく、価格によって選ばれがちな商品の一つです。
そうした商材を扱いながらも、大阪・堺市の豆腐店「安心堂白雪姫」には購入客からたくさんの礼状が届き、「つくった人に会いたい」と全国から多くのお客様が足を運びます。1984年創業以来、一隅を照らすように豆腐本来の味とおいしさを追求する橋本太七・由起子夫妻の人柄が共感を集め続けています。
安心堂白雪姫を語る上で欠かせないのが、金沢の持ち帰り寿司の名店「芝寿し」創業者、故梶谷忠司さんです。縁の始まりは、船乗りだった太七さんが由起子さんに心配をかけまいと、子が生まれたのをきっかけに商売を学ぼうと芝寿しに研修へ入ったことでした。
太七さん今も梶谷さんを「人生の師父」と仰ぎます。商業界創立者、倉本長治が提唱した理念「店は客のためにある」ことに徹する梶谷さんの姿を間近で見てきたからです。
3カ月の研修のつもりで働きはじめた芝寿しで12年目のあるとき、親戚筋から大阪で豆腐店の承継を持ちかけられました。「もともと商売するつもりでしたから、芝寿しでやってきた『店は客のためにある』ことを今度は豆腐でやればいい」と由起子さんも賛成しましたが、じつは半年前まで病の床に伏していました。原因不明の病気により入退院を繰り返し、3人の幼子を抱えながら寝たきりの生活を余儀なくされたのです。
「トイレに行くのにも、食事するにも手を借りなくてはなりません。主人は嫌な顔ひとつせずやってくれるどころか、『お、今日もいい顔してるね』といつも明るく声をかけてくれる。痛みと辛さで泣いていて、良い顔のわけがないのにね」と由起子さんは振り返ります。
そんな闘病生活のトンネルを、最先端の治療と太七さんの献身的な支えが奏功して約3年で抜け出した半年後、豆腐店承継の話が持ち込まれました。「店は夫婦が心を合わせて協力しなければ興せません。私たちは闘病生活を通じて、すでにそれをやってきた。だから創業にためらいはありませんでした」と決断したのです。
退職時には多くの関係者を集めた送別会が開かれ、3人の子どもたちも呼ばれました。創業により家庭環境は大きく変わり、子供たちにも負担がかかります。だからこそ、多くの人に惜しまれ、旅立つ親の姿をきちんと見せておくことが必要という梶谷さんの配慮でした。
橋本夫妻の真の商いの道のりの詳細は新著『売れる人がやっているたった四つの繁盛の法則』に譲りますが、二人が大切にしている言葉があります。住友グループの中興の祖、田中良夫の「私の願い」です。
一隅を照らすものでわたしはありたい
わたしのうけもつ一隅がどんなにちいさい
みじめなはかないものであっても
わるびれずひるまず
いつもほのかに照らしていきたい
「お客様に喜んでもらうには何をすればよいのかを常に二人で相談し、やってきました」と太七さん。続けて「これからも淡々とやっていくだけです」と二人は声を揃えます。ひとくち食べると、じんわりと幸せが満ちていく安心堂白雪姫の豆腐。そのおいしさは二人の人柄の反映にほかなりません。