福岡県久留米市、JR久留米駅近くにあるあきない通りは、かつては問屋街と呼ばれ、繊維の卸のまちとして県内はもちろん、九州一の繁栄を誇っていました。しかし、時代の流れとともに衰退、多くの店が卸から小売や飲食に転換して生き残りを図ってきました。今日の主人公、西原健太さんが取締役を務める西原糸店もそんな店の一つです。
プラスαの感動を加えよう
西原糸店の店内には、このまちを支えてきた久留米絣による和服、洋服、かばん類バッグ、ハンカチや財布ポーチなどの小物類が飾られ、店の入り口には昔懐かしい駄菓子類を集めた古い木製の棚も配置してあります。数年前に新築したばかりの洗練された店のつくりとあいまって、新しさと懐かしさが混在する独特の雰囲気を醸し出しています。
今では数少ない久留米絣を扱う専門店として知られますが、道のりは決して平坦ではありませんでした。2010年秋、西原さんが中心となって新しい商店主による組織をつくり、活性化に取り組んだことから変化は始まります。
「店主たちが顔を合わせたときに、まず始まったのが名刺交換でした。近所どうしなのにまったくつながりがない。あらためてそれがわかりショックでしたが、逆にチャンスだとも感じました」と西原さんはそのときのことを語ります。
まちの名前を「あきない通り」に変え、数々のイベントを行いました。しかし、人は集まるものの商売には結びつきません。決定打を打ち出せないまま悩んでいたとき、久留米商工会議所から参加を呼びかけられたのがまちゼミでした。
「イベントは大きな打ち上げ花火のようなもの。ステージや企画にお金や労力を費やし、その日に何千人と集まっても、次の日には何ごともなかったかのようです。その点、まちゼミは普段お店でお客さまを相手にしている販売の延長線上にあるものに思えました。持っている知識にプラスαで何かを加えれば、きっとお客さまの感動につなげられると」
2013年11月の第1回目のまちゼミで西原糸店が開いた講座初は「大発見! かすりってカワイイ♡」。代表である母と夫人の3人で、地元の伝統工芸の久留米絣の知識の伝授を試みました。
変わり始めたまちの雰囲気
初めてのことで、ちょっと緊張したまちゼミでしたが、西原さんは自店のことだけに関わっていたわけではありません。自らまちゼミの旗振り役を買って出て、あきない通りの店に参加を呼びかけて回りました。すぐに主旨を理解して参加を決めた店もありましたが、そうでない店も少なくありませんでした。
「現実を見れば、跡継ぎがいない、不動産を持っていてとりあえず食べるのには不自由しない……。売上げを気にするより静かに暮らしたい。そういう方もいらっしゃいました」
このように、店によって事情も考え方も大きく異なります。その現実は現実として受けとめつつ、とにかく自分ができることを西原さんはまちを回り続けました。結局、第1回まちゼミには、あきない通りからは西原糸店を含めて4店が参加しました。
自店で行った久留米絣の講座については、すぐに一方的な話だけではいけないと気づき、2回目からはより参加者どうしが交流を図れるよう体験の時間をつくることにしました。4回目からは小さな機織り機を用意して、受講者全員が久留米絣のコースターを手織りできるようにしたところ、大好評の講座に成長していきました。
その後も西原さんは、あきない通りの店主たちにまちゼミの参加を呼びかけ続けました。相変わらず手応えのない人、「放っておいてくれ」と投げやりに言葉を返す人は少なくありませんでした。
しかし、各店の個別の事情はあっても、まち全体が発展することに誰もが異論はないはず。
「口やかましい若いやつ」を自認しつつ、めげずに歩き続けると、少しずつ変化が現れ始めました。
「『いらんことをせんでくれ』と言っていた人が、『あんたが言うんだったら、何でも協力してあげるよ』と言ってくれるようになりました。また、ある方はイベントに大反対していたので、しばらく顔を出さなかったんですが、協賛金を募っていることを人づてに聞いて『なんでウチに来んのや!』と叱られました。『せっかく出すつもりで用意しているのに、俺のところだけ避けて、お前、なめとんのか!』と(笑)」
西原さんが歩き続けたことで、まち全体の雰囲気が変わっていきました。廃業を匂わしていたのに、若い後継者が働きはじめた店も現れました。新店が出店するという、うれしい出来事も起こりました。
もちろん、これらはまちゼミだけの効果ではないでしょうが、まちゼミが大きく貢献していることは間違いありません。まちゼミには、それぞれの店はもちろん、まちを変えていく力があるのです。