「お客様は神様です」
この言葉はかつて、日本の商人たちの誇りと良心を映す、美しい理念でした。しかし令和の今、その言葉が、現場で汗を流す人々の心を押しつぶす“呪文”に変わってしまっているとしたら――。
「お客様第一主義」がもたらす現場の悲鳴
ある飲食チェーン店での出来事。ランチタイムを過ぎた午後、店内が落ち着いた時間帯に入ってきた中年男性客が、料理の提供の遅さに腹を立て、怒号を浴びせ始めました。
「遅い! やる気があるのか!」
「おれが誰だかわかってるのか! 本社に言ってクビにしてやる!」
店員は若い女性スタッフ。彼女はただ、うつむいて頭を下げ続けるしかありませんでした。助けを求めて上司に相談しても、「波風を立てないよう、謝っておけばいい」というだけ。そこには、従業員の尊厳も、心の健康も、存在していないように感じられます。
こうした「理不尽なクレーム」や「暴言」「脅迫」は、今や社会全体の課題です。いわゆるカスタマーハラスメント――“カスハラ”は、飲食、小売、サービス業といった日常を支える業界で深刻化しています。
もちろん、商売の本質は「お客様を大切にすること」にあります。しかしその理念が、「お客様は常に正しい」「従業員は常に我慢すべきだ」という極端な価値観にすり替わったとき、商いは本来の目的を失ってしまいます。
たとえば、ある大手コンビニエンスストアでは、過剰なクレーム対応が原因で、スタッフが心を病み、次々と離職する事態に至りました。なかには「笑顔が足りない」と日々責められ、休職に追い込まれた女性スタッフもいます。
「お客様第一主義」とは、一部の声の大きな客に迎合することではなく、すべてのお客様、そして従業員が安心して過ごせる環境を守ることのはずです。それを見誤ったとき、商売の舞台から人の笑顔が消えてしまいます。
誰もが尊重される「商い」のために
そんななか、ある地方のスーパーが掲げたレジ前の一文が注目を集めました。
「従業員への暴言や迷惑行為には、毅然と対応いたします」
「すべてのお客様にとって心地よい空間を守るため、ご理解とご協力をお願いいたします」
これは「従業員を守ることが、すべてのお客様を守ることにつながる」という、強い信念のあらわれです。実際、この掲示を行ってから、理不尽なクレームは激減し、スタッフの定着率も大きく向上したといいます。
私たちは今、「お客様」と「従業員」を対立関係ではなく、信頼関係として見直す時を迎えています。商売とは、本来「価値を共につくる行為」です。誰かを犠牲にして成立するようなビジネスに、持続可能な未来はありません。
これからの「お客様第一主義」には、次のような視点が求められます。
・従業員を一人の人間として、尊厳をもって扱うこと
・不当な要求やハラスメントには、毅然と対応する体制を整えること
・声の大きな顧客ではなく、「本当に守るべきお客様」を見極めること
商売とは、笑顔の連鎖を生み出す営みです。従業員が笑顔で働ける職場からこそ、お客様の笑顔が生まれます。心をこめて接客する人がいてこそ、心に残るサービスが生まれるのです。
だからこそ、私たちは声を上げましょう。お客様も、従業員も、ともに尊重される商いの未来のために。
私が敬愛する商業思想家・倉本長治は「店は客のためにあり、店員とともに栄える」と言いました。この言葉を、単なる理想ではなく、現場の現実にしていくために。商いの心を未来へ、そして人へ、つないでいきましょう。







