私たちはつい、「売れるとは何か」「役に立つとは何か」という問いに縛られながら商いを営みます。しかし、その“常識”こそが、商いを窮屈にしているのかもしれません。
荘子は、古代中国の思想家。孔子や孟子のように「人として正しく生きよ」とは説かず、老子の「無為自然」をさらに推し進め、「自由自在に生きよ」と説いた、自由の哲学者です。
混迷の時代にこそ響く、荘子の教えは、肩肘張らずに自分らしく商いを続けるヒントに満ちています。自分らしく商う上で荘子の教えは輝きを放ちます。
無用の用--一見ムダこそ価値になる
荘子の有名な話に、こんな逸話があります。
「ある巨木があった。木材としては役に立たないほど節くれだっていたため、誰にも切られず、何百年も生き延びた。荘子は言う。『無用の木こそ、役に立つのだ』と」
商いにおいても、「売れる」「役に立つ」ものだけが価値だと考えていないでしょうか。しかし今、人々が求めているのは「効率」や「性能」ではなく、「意味」や「心地よさ」なのかもしれません。
たとえば、ある古道具屋は、実用性よりも「時を重ねた味わい」を大切にして仕入れを行っています。お客様の中には「これは何に使うんですか?」と尋ねる人もいますが、店主は「用途は、あなたが見つけてください」と笑います。
無用の中に、自分だけの価値を見出す。荘子的な商いが、確かにそこに息づいています。
遊ぶように働く--自在さが魅力を生む
荘子は、人生を「遊び」と捉えました。苦しむために生きるのではなく、自由に、自分らしく、無理なく在ることが大切だというのです。商いでも、気を張り詰めて「がんばる」ことが美徳のように扱われがちですが、荘子はそれを軽やかに超えていきます。
たとえば、ある小さな雑貨店の店主は「売れなくても好きなものしか置かない」と決めています。その分、商品知識も接客も、どこまでも楽しそう。自然と会話が生まれ、「あの人に会いに行く」こと自体が、来店の動機になるのです。
「こうしなければならない」という思い込みを手放し、「こうありたい」を大切にする。それが、荘子の言う「逍遥遊(しょうようゆう)=何ものにも縛られぬ自由な生き方」であり、今こそ見直したい商いの姿勢です。
真に自由な店は結果として愛される
荘子はまた、「外的な評価に振り回されるな」と説きます。名声、利益、競争――それらは他人の評価にすぎません。むしろ、自分が本当に納得できる生き方こそが、最も豊かだというのです。
これを商いに置き換えるなら、「売上」や「SNSのバズり」だけで自分の価値を決めないことです。短期的な流行に踊らされず、自分たちが本当に提供したい価値を大切にすること。それが、結果として深く長く、支持される店につながっていきます。
荘子の思想には、「戦わずして勝つ」「目立たずして残る」知恵があります。それは、力まなくても、構えなくても、信頼と共感が自然と集まるという、まるで「風に吹かれるような」商いのあり方です。
荘子の教えは、あらゆる「こうあるべき」を手放すことから始まります。
「売れなくてもいい。けれど、嘘はつかない」
「人に好かれなくてもいい。けれど、自分には正直でありたい」
「競争しない。けれど、妥協もしない」
そんな自由な商いのあり方が、じつはいちばん強いのかもしれません。混沌の時代に、何かにしがみつくのではなく、風のようにしなやかに漂いながら、自分の道をゆく。荘子の思想は、そんな「自由なる繁盛」へのヒントを、今日も私たちに投げかけてくれます。







