日本商業の父

倉本 長治とは?

 倉本長治(くらもとちょうじ)は1894年(明治27年)、東京に生まれる。元禄時代からの菓子商の家に育ち、幼いころから小売商に愛着と関心を抱く。仙台二中を卒業後、山下汽船で実務、東京商業会議所で調査の経験を積み、1925年に26歳で雑誌「商店界」の編集長、同主筆に就く。
 水を得た魚のごとく、商業評論、広告・宣伝のコンサルタントとして活躍するものの、戦時体制の強化により「商店界」は休刊を余儀なくされる。そこで師事する理化学研究所の大河内正敏所長の薦めにより、理研傘下の科学主義工業社専務に就任。これが原因で後にGHQから公職から追放されることとなる。
 戦後、日本経済は混乱の極みにあった。激しいインフレが続き、商業は不当な高値販売や情実販売が横行し、道義は地に落ちていた。そこで手弁当で全国各地へ赴き、「店は客のためにある」という消費者主権と、「損得より先に善悪を考えよ」という商業倫理を掲げ、正しい商人道と商業の近代化を説いた。
 1948年、全国の愛読者と支援者たちにより、後半生のすべてを捧げることとなる雑誌「商業界」が創刊される。戦後の混乱治まらぬ中にあって健筆をふるい、新しい時代の商業経営の精神と技術を提唱。追放が解除されると、商業界主幹に就任する。
 当時の激しいインフレや、貧しい消費、乏しい生産、そして社会不安の中にあっては、近代的な商業の発展をただちに実現することは困難を伴った。そこで、人と人との直接的なコミュニケーションによる説得こそ唯一の理解の道であると考え、1951年2月、箱根において講師と受講生が寝食を共にして学びあう「商業界ゼミナール」を催す。
 その反響は大きく、これまでの金儲け一辺倒の商人のあり方を悔い改め、お客様のための商売に生きようという信念に燃えた商人たちを育成。また、いち早くアメリカの先進的な経営技法の導入を積極的に提唱し、来たるべきチェーンストア、ショッピングセンター時代に先鞭をつける。商業界ゼミナールには3000人を超える商人が全国から集い、学び、寝る間を惜しんで語り合う「商人の道場」と呼ばれた。
 こうした活動を通じて、日本の近代的商業の育成に大きく関与したばかりではなく、多くの優れた経営者を全国各地に輩出。彼らの多くから師として敬われ、「日本商業の父」「昭和の石田梅岩」と呼ばれた。これらの数々の功績によって、藍綬褒章、勲五等双光旭日章を贈られ、1982年1月29日、82歳をもって天寿を全うする。商業界ゼミナールが興った箱根の早雲寺に眠る。
 本書のタイトルとした『店は客のためにあり店員とともに栄え店主とともに滅びる』という一文は、倉本長治の思想の神髄である。また、各章の見出しとした「商売十訓」は多くの商人たちの指針として進むべき道を明るく照らし続けている。