「男はつらいよ」を観ていると、ときどき不思議な気持ちになります。主人公の車寅次郎は、決して人生の成功者ではありません。定職を持たず、全国を旅して歩き、惚れては振られ、家族と喧嘩をしては柴又を飛び出していく。商売だって、露店で口上を並べながら品物を売るテキ屋稼業です。
ところが、そんな寅さんが人生の大切なことを誰よりもよく知っているように見える瞬間があります。第39作「男はつらいよ 寅次郎物語」に、私がシリーズの中でもとりわけ好きな場面があります。旅に出ようとする寅さんに、甥の満男が「伯父さん、人間は何のために生きてるのかな」と尋ねます。寅さんは少し考えて答えます。
「生まれて来てよかったなって思うことが何べんかあるじゃない。そのために人間生きてんじゃねえのか」。
実に寅さんらしい答えです。人生の目的とは何か。成功することか、お金を稼ぐことか、名を残すことか。そんな大げさな話ではありません。「生まれてきてよかった」と思える瞬間がときどきある。それだけで人生には意味があるというのです。この言葉は、商いにもそのまま当てはまるように思います。
「思っているだけ」ではお客さまには届かない
寅さんには、恋愛について満男を諭す名場面もあります。
「思ってるだけで何もしないんじゃな、愛してないのと同じなんだよ」
第45作「男はつらいよ 寅次郎の青春」での言葉です。何度も恋をして、そのたびに失敗してきた寅さんが言うからこそ味があります。しかし、これは恋愛だけの話ではありません。
「お客さまを大切にしたい」
「地域の役に立ちたい」
「従業員に幸せになってほしい」
経営者から、私はこうした言葉を何度も聞いてきました。もちろん、その思いは尊い。しかし商売では、思っているだけでは相手には伝わりません。お客さまを大切にしたいなら、どんな売場にするのか。どんな声をかけるのか。どんな商品をそろえるのか。困っている人がいたら、どう助けるのか。従業員を大切にするなら、給与だけではなく、働き方や育成、日々の声かけをどう変えるのか。思いは、行動になって初めて価値になります。
寅さんは理屈を語る人ではありません。目の前で困っている人がいれば放っておけない。誰かが泣いていれば一緒に泣く。失恋した若者には「腹いっぱい泣くがいいさ」と言う。間違っていると思えば相手が誰であろうと腹を立てる。不器用だけれど、行動する人なのです。
商人も同じではないでしょうか。店の理念を額に入れて掲げることよりも、雨の日に濡れて入ってきたお客さまへタオルを差し出すことのほうが、その店の理念を雄弁に語ることがあります。「ありがとうございました」と心から頭を下げる一瞬に、その店のすべてが表れることもあります。商いとは、思いを行動に翻訳する仕事なのです。
「生まれてきてよかった」と思える瞬間をつくる
寅さんには、もう一つ好きな言葉があります。
「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ」
第43作「男はつらいよ 寅次郎の休日」。満男に向かって寅さんが言います。実際には、風に向かって名前を呼んでも寅さんが現れるわけではありません。それでも、この言葉には強い力があります。「お前には俺がいる」と伝えているからです。
商売の本質も、案外ここにあるのではないでしょうか。商品を売ることだけが商売ではありません。「何かあったら、あの店へ行けばいい」「困ったら、あの人に相談しよう」と思ってもらえること。そこまで信頼されて初めて、店は地域の中に根を下ろします。
価格だけなら、もっと安い店があるかもしれない。品ぞろえなら、インターネットにはかなわないかもしれない。しかし、「あなたから買いたい」「あなたに相談したい」という関係は、簡単には価格比較できません。
私は長く多くの繁盛店を取材してきましたが、繁盛する店には、この「何かあったら、あの人」という存在があります。店主の顔が浮かぶ。スタッフの顔が浮かぶ。そして店に行けば、自分を知っている人がいる。それは、とても大きな価値です。
考えてみれば、お客さまにとって買物も人生の一部です。誕生日のケーキを買う。子どもの入学式の服を選ぶ。病気になった家族のために薬を買う。大切な人への贈り物を探す。家族で外食する。その一つひとつに、人の人生があります。
商人は、その人生の一場面に立ち会う仕事です。だからこそ、良い商いには、ときに「生まれてきてよかった」と思える瞬間が生まれます。
「この店があってよかった」
「あなたに相談してよかった」
「ここへ来ると元気になる」
そんな一言をお客さまからもらった経験のある商人なら、その喜びを知っているでしょう。それは売上の数字とは違う、商売を続けてきた者だけが味わえる報酬です。
寅さんは、何度振られても恋をします。何度失敗しても旅に出ます。人を信じることをやめません。効率だけ考えれば、ずいぶん損な生き方です。しかし、だからこそ寅さんの周りには人が集まり、笑いがあり、涙があります。
商いもまた、効率だけでは測れません。今日一人のお客さまを喜ばせること。今日一人の従業員に「ありがとう」と言うこと。困っている人に手を差し伸べること。その積み重ねの先に、いつかふと、「この仕事をしてきてよかった」と思える瞬間が訪れます。それこそが、商人にとっての「生まれてきてよかった」ではないでしょうか。
寅さんなら、きっと難しいことは言わないでしょう。惚れたら動け。困っている人がいたら助けろ。そして、ときどき訪れるうれしい瞬間を忘れるな。商いも人生も、案外それくらいがちょうどいいのかもしれません。







