朝、店のシャッターを開けた店主が、手書きの一枚のPOPをじっと見つめていました。新しい商品の魅力を自分の言葉で伝えようと、前の晩に何度も書き直したものです。しかし、「こんなことを書いて、お客さまはどう思うだろう」と迷い、なかなか売場に出せません。
やがて意を決し、商品棚の前に置きました。ほどなく一人のお客さまが足を止め、POPを読み、「これ、あなたが選んだの?」と声をかけてくれました。そこから会話が始まり、商品が一つ売れました。大きな出来事ではありません。それでも、その店の明日は確かに動き始めました。
英語に「Seize the day」という言葉があります。「今日をつかめ」「今を生きよ」という意味です。これは、先のことを考えず、その日だけ楽しめという勧めではありません。まだ来ていない明日に心を奪われず、過ぎた昨日に縛られず、自分が手を伸ばせる今日を生き切ろうという呼びかけです。
人生も商いも、実際に動かせるのは今日だけです。
完璧な日を待つほど
今日が遠ざかる
「もう少し自信がついたら」「忙しさが落ち着いたら」「条件がそろったら」と考えているうちに、やりたかったことが何カ月も、何年も先送りになることがあります。けれど、何の不安もない日も、すべての条件が整う日も、なかなか訪れません。今日を見送る理由を探している限り、明日もまた同じ理由が現れます。
これまで数多くの商人を取材してきて、繁盛する人には一つの共通点があると気づきました。その人たちは、最初から正解を持っていたのではありません。まず試し、お客さまの反応を見て、直し、もう一度試していました。考えてから動くのではなく、動くことで考えを深めていたのです。
新しい企画を一気に完成させる必要はありません。気になっているお客さまに一本電話をする。売れない商品の置き場所を一つ変える。スタッフのよい仕事を見つけて、その場で「ありがとう」と伝える。ずっとあたためてきた案を、信頼できる人に話してみる。そんな小さな行動が、止まっていた時間を再び前へ進めます。
昨日への後悔も、明日への不安も、決して無駄ではありません。後悔は、自分が何を大切にしているかを教えてくれます。不安は、守りたいものがある証しです。ただし、それらが力に変わるのは、今日の行動に結びついたときです。昨日から学び、明日に備え、今日に手をつける。過去と未来を生かせる場所も、やはり今日なのです。
今日をつかむ人に
明日は味方する
「今日をつかむ」と聞くと、一日を余すことなく働き抜くことのように感じるかもしれません。しかし、予定を隙間なく埋めることが、今日を大切にすることではありません。大切なのは、いまの自分にとって本当に価値のあることを一つ選び、そこに心を込めることです。
朝、三つだけ書き出してみてください。
「今日、会いたい人は誰か」
「今日、直したいことは何か」
「今日、誰に感謝を伝えるか」
すべてできなくても構いません。一つ実行できれば、昨日までとは違う一日になります。商いなら、お客さま一人の声を丁寧に聴くことでもよい。暮らしなら、家族と食卓を囲み、顔を見て話すことでもよい。自分のために本を数ページ読むことでもよいでしょう。
未来は、特別な一日によってだけつくられるのではありません。何でもない今日に何を選ぶかによって、少しずつ形づくられていきます。
うまくいかなかった日にも価値があります。踏み出したからこそ、違うとわかることがあります。断られたからこそ、伝え方を変えられます。失敗は、今日を失った証拠ではありません。今日を使って学んだ証拠です。何もしなかった後悔より、動いたことで得た学びのほうが明日を確かに支えてくれます。
私たちは、いつか時間ができたら人生を始めるのではありません。すでに今日という人生の真ん中に立っています。目の前にいる人、いま任されている仕事、心の奥で「やってみたい」と声を上げていること。その一つひとつに向き合うことが今日をつかむということです。
大きな決意はいりません。まず、先送りにしていることを一つだけ始めてみませんか。一本の電話、一通の手紙、一言の感謝、一枚のPOP。その小さな一歩を、今日のうちに。「Seize the day――今日をつかめ」という明日を変える力は、遠い未来にあるのではありません。いま、この瞬間のあなたの手の中にあります。



