笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

「また上がるのか」

 

閉店後、売上を締めた店主がスマートフォンの記事を見ながら、思わず声を漏らす。画面にあるのは、最低賃金のニュースです。全国加重平均は1,177円。前年より56円上がります。

 

頭に浮かぶのは来月の給与です。仕入れ価格は上がった。電気代も配送費も高い。値上げはしたけれど、利益にはまだ余裕がない。「シフトを少し減らすしかないか」「忙しくない時間帯は一人で回そうか」といった計算を始めたくなる気持ちはよくわかります。しかし、ここで一度考えたいのです。人件費を減らせば、本当に経営は楽になるのでしょうか。

 

厚生労働省が9月3日にまとめた2026年度の地域別最低賃金の答申では、全国加重平均は1,177円。56円の引き上げは、現在の目安制度が始まって以来2番目の大きさです。一方、東京商工リサーチによると、今年1~8月の「人手不足」関連倒産は333件。そのうち「人件費高騰」は175件、「従業員退職」は81件で、いずれも過去最多となりました。

 

人を雇うことが難しい。賃金を上げることも難しい。だからこそ、これからの経営で問われるのは「どう人件費を削るか」ではありません。「一人ひとりが生み出す価値を、どう高めるか」です。

 

 

 

人件費を削ると、見えないものまで削られる

 

人件費は数字で見えるため、苦しくなると真っ先に削りたくなります。営業時間を短くする。シフトを減らす。少ない人数で店を回す。それ自体が悪いわけではありません。仕事の量に対して人が多すぎるなら、見直しは必要です。

 

問題は、「人を減らすこと」が目的になってしまうことです。一人減れば、残った人の仕事が増えます。品出しが遅れる。掃除が行き届かない。お客さんを待たせる。声をかける余裕がなくなる。新人を教える時間もなくなる。すると接客の質が下がり、売上が落ち、職場はさらに忙しくなります。

 

そして、頑張っている人から疲れていく。人件費を削ったつもりが、同時に「お客さんへの気配り」「働く人の余裕」「店の魅力」まで削っていた――そんなことになれば本末転倒です。

 

小さな店ほど、一人の存在は大きいものです。その人がお客さんの名前を覚えている。その人だから相談したいという常連客がいる。その人が新人を支え、店の空気をつくっている。人件費の表には、そうした価値は出てきません。人は「費用」である前に、価値を生み出す存在です。

 

 

見るべきは時給ではなく、一時間の価値

 

では、人件費が上がる時代にどうすればいいのでしょう。大切なのは、働く人にもっと急いでもらうことではありません。一人が一時間に生み出せる価値を高めることです。

 

たとえば、毎日手書きしている集計を自動化できないか。何度も同じ内容を入力している仕事をなくせないか。発注を仕組み化できないか。AIに任せられる文章作成や情報整理はないか。売れない商品を管理する時間を減らせないか。

 

機械やデジタルにできる仕事は任せ、人には人にしかできない仕事をしてもらう。お客さんの話を聞く。好みに合った商品を勧める。使い方を教える。売場を工夫する。新しい商品を考える。「また来たい」と思ってもらう。そこに、人が働く価値があります。

 

ここで大事なのは「生産性を上げる」という言葉を、もっと速く動け、もっと多く売れ、という圧力にしないことです。それでは人は疲弊します。むしろ現場の人に、「なくせる仕事は何ですか」「もっとお客さんのために時間を使うには何を変えればいいですか」と訊いてみる。毎日その仕事をしている人だからこそ、経営者には見えない無駄を知っています。削るべきなのは、人ではありません。人がやらなくてもよい仕事です。

 

小売業なら「人時売上高」や「人時粗利益高」という考え方があります。難しく考える必要はありません。「一人が一時間働いたとき、いくら売上や粗利益を生み出せたか」を見る指標です。賃金が上がるなら、その数字も上げる。そのために仕事を見直す。これこそ経営者が取り組むべき賃上げ対策です。

 

 

賃上げできる会社は、人を大切にできる会社

 

「人を大切にする」と言うのは簡単です。しかし、本当に人を大切にするなら、その人の生活を支える賃金を払い、成長できる仕事を用意し、安心して働ける会社をつくらなければなりません。賃上げと「人を大切にする経営」は、別々の話ではありません。

 

もちろん、中小企業にとって今回の最低賃金引き上げは軽い負担ではありません。価格を見直す。粗利益を確保する。やめる仕事を決める。商品構成を変える。設備やデジタル、AIを使う。経営者自身の仕事も見直す。できることを一つずつ積み重ねなければ、原資は生まれません。

 

けれど、「払えないから人を減らす」だけを続ければ、最後に残るのは、疲れ切った経営者一人かもしれません。これから強い店は、人件費の安い店ではありません。一人ひとりが高い価値を生み、その価値にふさわしい賃金を払える店です。

 

最低賃金1,177円という数字を見て、ため息をつくだけで終わらせてはなりません。その数字を、自分の店の仕事を変えるきっかけにするときです。「この人の時給はいくらか」ではなく、「この人がもっと力を発揮するために、私は何を変えられるか」と、経営者が問いはじめたとき、人件費は削る対象から、未来をつくる投資へと変わります。

 

人を減らして利益を残すのではありません。人が育ち、人が力を発揮するから利益が残るのです。これからの商いに必要なのは、そんな順番の転換です。

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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