笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

「もう知っている」が商いを止める

「もう、この歳だから」

 

ときどき、そんな言葉を耳にします。新しいことを始めようとしたとき、デジタルの話になったとき、若い人の感覚についていけないと感じたとき。年齢を理由に、一歩を踏み出すことをためらってしまう人がいます。

 

けれども、商いの世界を長く取材してきて思うことがあります。人は、歳を重ねたから老いるのではありません。「もう知っている」「これで十分だ」と思ったときから、少しずつ老いはじめるのではないでしょうか。

 

アップルの共同創業者、スティーブ・ジョブズが2005年のスタンフォード大学卒業式で語った有名な言葉があります。

 

“Stay hungry. Stay foolish.”

 

「ハングリーであれ。愚かであれ。」という言葉はジョブズ自身がつくったものではなく、彼が若いころ愛読していた雑誌の最終号に掲げられていた言葉と言われています。卒業生へのスピーチの最後に、この言葉を贈りました。

 

「ハングリー」と聞くと、成功への野心や「もっと稼ぎたい」という欲望を想像するかもしれません。しかし、私は商人にとってのハングリーとはもっと素朴なものだと思っています。「もっと知りたい。もっと良くしたい。もっとお客様を喜ばせたい」という心です。

 

 

「知っている」が成長を止める

 

商いを長く続ければ、経験が増えます。それは大きな財産です。商品のこともわかる。お客様のこともわかる。売れる季節も、売れない時期もわかる。何か問題が起きても、「ああ、これは以前にもあった」と対処できるようになります。

 

しかし、経験には一つだけ怖いところがあります。経験が増えるほど、「知っている」が増えることです。「それは昔やったよ」「うちのお客様には合わないよ」「そんなものは売れないよ」という判断が正しいこともあります。しかし、その言葉を口にする前に、一度だけ問い直してみたいのです。

 

本当に、今もそうだろうか。

 

お客様は変わっています。暮らし方も変わっています。情報の集め方も、買い方も変わりました。昨日まで正解だったことが明日も正解とは限りません。だから繁盛する商人は、ベテランになっても「それ、おもしろいね。どうやるの?」とよく尋ねます。

 

知らないことを恥ずかしがりません。若い人にも教えを請う。知らない店があれば見に行く。お客様が知らない言葉を使ったら調べてみる。新しい道具が出れば、まず触ってみる。私はそんな商人を数多く知っています。

 

AIもそうでしょう。「自分には関係ない」と遠ざけるのは簡単です。しかし、「これでお客様にもっと喜んでもらえることはないか」と一度使ってみれば、新しい可能性が見えてくるかもしれません。

 

商人に必要なのは、何でも知っていることではありません。知らないことを、おもしろがれることです。それこそが「Stay foolish.」の精神ではないでしょうか。

 

 

昨日より一つだけ良くしてみる

 

では、ハングリーであり続けるためには、どうすればいいのでしょう。私は、大きな目標はいらないと思っています。

 

昨日より、一つだけ良くする。売場の商品を一つ、もっとわかりやすく見せてみる。いつものPOPを一枚書き直してみる。常連のお客様に、いつもとは違う質問をしてみる。スタッフから出た提案を一つ試してみる。行ったことのない繁盛店へ足を運んでみる。たったそれだけでいい。

 

商売を変えるのは大改革だけではありません。毎日の小さな「もっと」が店を変えていきます。これまで多くの繁盛店を訪ねてきましたが、本当にすごい商人ほど「まだまだです」と言います。決して謙遜だけではありません。本当に、まだ先が見えているのです。

 

一つできれば、次の課題が見える。一人のお客様に喜んでもらえれば、もっと喜んでもらう方法を考える。昨日より良くなったからこそ、今日足りないものに気づく。だから成長が止まりません。

 

反対に、「うちはこれでいい」と思った瞬間、改善する理由はなくなります。満足は心を豊かにしてくれます。しかし、商いにおいては「感謝」と「満足」を分けて考えたいものです。今日来てくださったお客様には、心から感謝しましょう。今日一日働けたことにも感謝しましょう。しかし、自分の仕事には「もっと、いい商いができるはずだ」ともう少し欲張っていい。

 

ジョブズは若者たちに、「Stay hungry. Stay foolish.」と語りました。けれども、この言葉は若者だけのものではありません。むしろ経験を重ねた人ほど、大切にしたい言葉ではないでしょうか。年齢を重ねれば、経験は増えます。人を見る目も養われます。失敗も成功も知っています。そこに「まだ知りたい」という好奇心が加わったら、こんなに強いものはありません。

 

知らないことに出会ったら、喜ぶ。「おもしろそう」と近づいてみる。「できるかどうか」より、「やってみよう」と考える。商人に定年も、好奇心もありません。昨日までの経験を大切にしながら、昨日までの常識には縛られないようにしましょう。

 

今日も一つ、新しいことを知る。今日も一つ、お客様を喜ばす工夫をする。それだけで、店も人も、まだまだ成長できます。Stay hungry. Stay foolish.さあ、今日も「知らない何か」に会いに行きましょう。

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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