笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

祝いの膳が並びます。ところが、そこにあるはずの立派な鯛がありません。代わりに膳に載せられたのは、紙に描かれた一匹の鯛でした。親戚たちはあっけにとられます。武士にとって冠婚葬祭や祝いの席は、家の格式を示す大切な場です。恥をかいてでも体面を守る。それが当たり前だった時代に、主人公の猪山直之は見栄を張ることをやめます。映画「武士の家計簿」の印象的な場面です。

 

直之は加賀藩の御算用者、いまでいう会計の専門家です。剣豪でもなければ、天下国家を動かす英雄でもありません。来る日も来る日もそろばんを弾き、数字を確かめ、帳尻を合わせる。周囲から「そろばんバカ」と呼ばれるほど、生真面目に仕事を続ける男です。やがて家に膨大な借金があることを知ると、家財を売り払い、生活を切り詰め、家族とともに借金返済に取り組みます。刀ではなく、そろばんで家族を守った侍の物語です。

 

派手な成功物語ではありません。それなのに、なぜこれほど心に残るのでしょうか。そこに、地道に生きる人間の強さが描かれているからです。

 

 

地味なことほど人を裏切らない

 

私たちは、どうしても目立つ成果に心を奪われます。一気に売上が伸びた。大きな仕事を獲得した。新しい店を出した。SNSで話題になった。そんな出来事には注目が集まります。しかし、商売も人生も、本当はそんな劇的な日の連続ではありません。

 

ほとんどの日は、昨日とよく似た一日です。朝、店を開ける。掃除をする。商品を整える。お客様にあいさつする。電話に出る。伝票を確認する。最後に帳尻を合わせ、また明日に備える。その繰り返しです。

 

だから、つい思ってしまいます。「こんなことを続けていて、何になるのだろう」と。しかし、直之は違います。数字が一つ合わなければ、その理由を探します。小さな金額もおろそかにしません。地位が上がっても、やることは変わらない。目の前にある仕事を、一つずつ正しく行うだけです。

 

地道な努力には歓声がありません。すぐに結果が出るとも限りません。誰にも褒められない日もあります。それでも、地味なことには一つの強みがあります。積み重ねたものは、簡単には消えないことです。 信用も技術も習慣も、一日でできるものではありません。

 

毎日の小さな約束を守る。昨日より少し仕事をよくする。お客様の名前を覚える。間違いをそのままにしない。そうした小さな積み重ねが、やがて「この人なら大丈夫」「この店なら任せられる」という信用になります。

 

 

見栄を捨てると見えるもの

 

猪山家が苦しくなった大きな理由の一つは、収入以上の暮らしを続けていたことです。身分が上がれば付き合いが増え、祝い事があれば相応の膳を用意しなければならない。武士には武士らしい暮らしが求められます。

 

そこで直之が選んだのが、見栄を捨てることでした。家財を売り、質素な生活に切り替える。「人からどう見られるか」より、「家族をどう守るか」を選んだのです。

 

商売でも同じことがあります。周りの店がやっているからと、新しいことに手を出す。流行しているからと、必要のない設備を入れる。大きく見せたいから品ぞろえを増やす。しかし、それは本当にお客様のためでしょうか。本当に自店の強みを生かすことでしょうか。

 

経営が苦しいときほど、派手な一発逆転策を探したくなります。けれども、必要なのは案外地味なことです。何にお金を使っているのかを確かめる。売れている商品と売れていない商品を見る。一人のお客様の声を聞く。粗利益を確認する。無駄を一つなくす。できていない基本を一つ直す。そんなことに大きなニュース価値はありません。しかし商売を支えるのは、いつもこうした足元の仕事です。

 

見栄を捨てるとは、貧しくなることではありません。本当に大切なものに、限られた力を使うことです。 鯛が買えなくても、祝いはできる。豪華なものがなくても、家族を思う気持ちは失われない。むしろ余計なものを取り除いたとき、本当に守りたいものが見えてきます。

 

 

正しいことを正しく続ける

 

この映画で心を動かされるのは、直之が決して器用な人間として描かれていないことです。融通が利かない。家族から反発されることもある。それでも数字をごまかさず、自分が正しいと思う仕事を続けます。その生真面目さが藩の不正を見抜く力にもなっていきます。現に、直之は帳簿の数字の不一致から米の横流しと経理の不正に気づく人物として描かれています。

 

ここに、仕事の大切な本質があります。特別な才能がなくても、「正しいことを、正しく続ける力」は身につけられるということです。

 

繁盛店を取材していると、ときどき拍子抜けするほど当たり前の答えが返ってきます。「毎朝きちんと掃除しています」「お客様の顔と名前を覚えます」「売れ残った理由を毎日考えます」「一度来てくださった方に、また来ていただけるようにしています」と。魔法のような方法はありません。でも、その当たり前を十年、二十年と続けています。

 

多くの人が知っていることと、実際に続けられることは違います。続けるという行為そのものが、やがて差になります。才能の差より、続けた時間の差のほうが大きくなることさえあります。

 

一日だけなら誰でもできます。大切なのは、うまくいかない日にも続けることです。お客様が来なかった日も、売上が悪かった日も、思うように評価されなかった日も、やるべきことをやる。その積み重ねが人をつくり、店をつくります。

 

今日、足元の一つを整える

 

地道に生きるというと、夢がないように聞こえるかもしれません。しか逆です。大きな夢ほど、地道な一日に支えられています。千里の道も、今日の一歩を飛ばして進むことはできません。百年続く店も、一日一日の営業を飛ばして百年にはなりません。信頼される人も、今日の一つの約束を守るところから始まります。

 

映画の直之は、世の中を一気に変えようとはしません。自分にできることをします。そろばんを弾く。数字を合わせる。借金を一つずつ返す。子どもに仕事を教える。それだけです。しかし、その「それだけ」を愚直に続けることで、一家は激動の幕末から明治という時代を生き抜いていきます。

 

私たちも、ときには遠くばかりを見てしまいます。もっと売上を上げたい。もっと有名になりたい。もっと大きな仕事をしたい。それも大切でしょう。しかし遠くを見るほど、足元を忘れてはいけません。

 

今日、一つだけ整えてみませんか。机の上を片づける。お客様一人に手紙を書く。気になっていた数字を確かめる。売場の商品を一つ磨く。社員に「ありがとう」と言う。先送りしていた仕事を一つ終える。

 

そんな小さな一歩では何も変わらないように見えます。でも、人生とは、その小さな一歩の積み重ねです。派手でなくていい。人に褒められなくてもいい。昨日よりほんの少し丁寧に、今日を生きる。地道とは、遠回りではありません。未来をつくる、いちばん確かな道です。

 

そろばんの珠を一つずつ弾くように、今日できることを一つずつ積み上げていく。その一つ一つは小さくても、やがて振り返ったとき、それが自分の歩いてきた道になります。さて、あなたが今日、きちんとやり遂げる「一つ」は何でしょうか。

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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