笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

未来に種を蒔いた商人

また会えると思っていました。また福山を訪ねれば、いつものように迎えてくれて、店のこと、食のこと、商売のことを話せると思っていました。「こんないいものを見つけたんですよ」と、少年のような顔で新しい商品を見せてくれる。話しはじめれば時間を忘れ、笑い、ときには熱くなって、「これからどうしたらいいんでしょうね」と未来を語り合う。そんな時間がこれからも続くものだと思っていました。

 

2026年8月15日、「NATURAL MARKET IKO」の会長、胃甲安俊さんが永眠しました。訃報を知ったとき、すぐには言葉が出ませんでした。今も、もう会えないということを心のどこかで受け入れられずにいます。

 

胃甲さんと私の関係は、最初は取材する者とされる者でした。しかし、何度も店を訪ね、語り合い、胃甲さんが福山で開催した「奇跡の食のフォーラム」でご一緒するうちに、いつしかその関係を越えていました。

 

私にとって胃甲さんは親しい友であり、「この人の商いをもっと多くの人に知ってほしい」と心から思える商人でした。だから今、一人の友として、胃甲安俊という商人が遺したものを書いておきたいと思います。

 

 

売れるものではなく、売るべきものを売った

 

胃甲さんの商いには、一本の揺るがない軸がありました。「本当に良いものを、正しい価値とともに届けたい」という信念です。価格競争に苦しんだ時代を経て、安さを追いかける商売から離れ、自分が本当に良いと信じられるものを届ける店へと舵を切った。その決断からNATURALMARKETIKOという店が育っていきました。

 

IKOの棚に並ぶ商品には、一つひとつ理由がありました。なぜ、この醤油なのか。なぜ、この鰹節なのか。なぜ、この牛乳なのか。胃甲さん自身が食べ、確かめ、生産者と向き合い、「これはお客様に届ける価値がある」と信じたものを扱う。単に商品を仕入れて並べるのではなく、その向こうにいるつくり手の思いまで受け取り、それをお客様へ手渡そうとしていました。

 

忘れられないのは、2018年に福山で開催された「奇跡の食のフォーラム」での一幕です。「想いやり生乳を自分も扱いたい」という参加者に対し、胃甲さんは、自分ほど売り切れずに捨ててきた者はいない、それでも商品の素晴らしさを伝えることを諦めなかった、という趣旨の話をしました。

 

売れなければやめる。利益にならなければ別の商品に替える。それが経営として当然の判断に見えることもあります。しかし胃甲さんは、そこで踏みとどまりました。売れるから売るのではない。お客様のために売るべきだと信じるから売る。私は、そこに商人としての覚悟を見ました。

 

商売は利益がなければ続きません。けれど、利益だけを目的にした瞬間に失われるものがあります。「この商品によって、お客様の暮らしを少しでも良くしたい」という願いです。その願いがあってこそ、商品には商人の心が宿ります。胃甲さんは、それを言葉ではなく、日々の商いで見せ続けた人でした。

 

 

「次の次の世代」を見ていた

 

胃甲さんの視線は、いつも目の前の売上より、その先にありました。それも一年先、二年先ではありません。「次の次の世代」です。

 

2018年2月、福山で開かれた「奇跡の食のフォーラム」。そこには「次の次の世代のために、知識から意識へ」「食が変わると未来が変わる」という思いが込められていました。全国から、本来の製法や素材に真摯に向き合う人たちを福山に招き、私はナビゲーター、コーディネーターとしてその場をご一緒しました。あの日の胃甲さんのうれしそうな顔を、今でも思い出します。

 

胃甲さんがやりたかったのは、自分の店の宣伝ではありませんでした。自分の名前を残すことでもありません。「本物を知ってほしい。考えてほしい。そして次の世代に伝えてほしい」。ただ、それがしたかったのだと思います。だから彼は、このフォーラムを単なるイベントではなく「食の学習」と考えていました。

 

IKOもまた、ただ食品を買う場所ではありませんでした。食について学び、生産者を知り、自分たちが口にするものについて考える場所でした。店は商品を売る「売り場」であると同時に、人が価値を知る「学びの場」にもなれる。胃甲さんは、その可能性を商いの中で実践していました。

 

商人の仕事とは何でしょう。商品を仕入れて売ることだけでしょうか。売上を伸ばし、利益を残すことだけでしょうか。胃甲さんを見ていると、その先にもっと大きな役割があることに気づかされます。良いつくり手を守ること。正しい価値を生活者へ伝えること。地域に学びや出会いを生み出すこと。そして、自分が受け取った大切なものを次の人へ手渡すことです。

 

その哲学は、いま家族へ、スタッフへ、お客様へ、生産者へ、そして胃甲さんと出会った多くの人へ受け継がれています。人はいつかいなくなります。店もいつか姿を変えるかもしれません。しかし、誰かの心に手渡された志は残ります。

 

そう考えると、胃甲さんが見ていた「次の次の世代」とは、食だけのことではなかったのでしょう。自分がいなくなったあとにも残るものをつくる。それこそが商いなのだ。今になって、そう教えられている気がします。

 

 

本当の商人は未来に種を蒔く

 

私はこれまで長く、多くの商人を取材してきました。その中で何度も考えてきた問いがあります。「本当の商人とは、どんな人なのか」というものです。

 

売上の大きな人でしょうか。たくさんの店を持つ人でしょうか。経営のうまい人でしょうか。もちろん、それらも大切です。しかし胃甲さんを失った今、私はもっと違う物差しで商人を見たいと思っています。

 

自分が売ったものによって、お客様の暮らしを少しでも良くできたか。自分の商いによって、良いつくり手を守ることができたか。働く仲間に、仕事の誇りを残すことができたか。そして、自分がいなくなったあとにも誰かが育ててくれる種を蒔くことができたか。それが、本当の商人なのではないでしょうか。

 

胃甲さんは、たくさんの種を蒔いて逝きました。本物を選ぶこと。正しい価値を伝えること。目先の損得だけで判断しないこと。商いを通して人を幸せにすること。そして、自分たちの世代だけではなく、次の次の世代まで考えること。その一つひとつが、いま私の中にも残っています。

 

私は胃甲さんの商いを応援してきたつもりでした。しかし、こうして振り返ると、教えてもらっていたのは私のほうでした。何を売るかより、なぜ売るのか。いくら売るかより、それによって誰を幸せにするのか。そして今日の売上の先に、どんな未来をつくろうとしているのか。胃甲さんは、自らの生き方を通じて、それを教えてくれました。

 

もう一度、会いたかった。もう一度、店で話したかった。「胃甲さん、次は何をやりましょうか」と聞きたかった。そう思うと、どうしようもなく寂しくなります。けれど胃甲さん、あなたがずっと見ていた「次の次の世代」は、これからもやって来ます。あなたが大切にしたものを受け取った人たちが、その種を育て、また次の誰かへ手渡していくでしょう。

 

私も、その一人でありたいと思います。あなたから教わった商いの心を、これから出会う商人たちへ伝えていきます。「本当の商人とは何か」を問い続け、その答えを探し続けます。それが、あなたへの私なりの恩返しです。

 

胃甲さん、本当にありがとう。一緒に語ったこと、笑ったこと、未来を考えた時間を、私は忘れません。あなたと出会えたことは、私の人生の宝物です。どうか安らかに。そして、これからも私たちの商いを、少し遠いところから見ていてください。

 

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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