「店長を呼んでください」
スーパーで購入した弁当を開けると、ご飯の中から小さな異物が見つかった。驚いた客はレシートを持って店を訪れ、「交換か返金をお願いしたいのですが」と静かに申し出た。怒鳴ってもいない。威圧的な態度でもない。ただ、何が起きたのか説明してほしかっただけだ。
ところが応対した店員は「そのような要求を続けられるとカスタマーハラスメントと判断する場合があります」と答えた。客は耳を疑った。商品に不具合があったことを伝え、説明を求めただけなのに、自分が迷惑な客として扱われるのか。釈然としない思いを抱えたまま店を後にした。
もちろん、これは一例にすぎません。しかし近年、「逆カスハラ」という言葉が聞かれるようになった背景には、こうした違和感があります。
2026年10月から企業にはカスタマーハラスメント防止措置が義務づけられます。暴言や脅迫、不当な要求から働く人を守ることは極めて重要です。しかし、その考え方が誤って運用されれば、本来守るべきお客様との信頼まで失いかねません。
「逆カスハラ」とは法律上の用語ではありません。一般には、企業や従業員が「カスハラ」という言葉を盾にして、正当な苦情や改善要求まで排除してしまう状態を指して使われています。
苦情は商売を育てる贈り物
商売をしていれば苦情は避けられません。しかし、苦情とカスタマーハラスメントはまったく別物です。
厚生労働省は、カスタマーハラスメントを「社会通念上相当な範囲を超えた言動によって、労働者の就業環境を害するもの」と整理しています。つまり問題となるのは、「何を求めたか」ではなく、「どのように求めたか」です。
商品に欠陥があれば交換を求める。契約内容と違えば説明を求める。サービスに不満があれば改善を要望する。こうした行為は、お客様として当然の権利です。
一方で、大声で怒鳴る。人格を否定する。何時間も店員を拘束する。土下座を強要する。不相応な補償を要求する。こうした行為は明らかにカスタマーハラスメントです。
ところが現場では、この境界線が見えにくくなることがあります。「従業員を守らなければならない」という意識が強くなるあまり、少し厳しい口調で改善を求められただけで身構えてしまう。「説明してください」という一言さえ、「面倒なお客様」と受け止めてしまう。
その結果、本来なら経営改善につながる貴重な声まで失われてしまいます。思い返せば、多くの繁盛店はお客様の厳しい声から成長してきました。
「使いにくい」「わかりにくい」「もっとこうしてほしい」。耳の痛い言葉の中にこそ、次の繁盛の種があります。苦情とは、店に期待しているからこそ寄せられる声でもあるのです。
もちろん、すべての苦情を受け入れる必要はありません。しかし、最初から敵意をもって受け止めれば、お客様も心を閉ざします。そこで失われるのは一件の売上だけではありません。店への信頼そのものです。
守るべきは「従業員か顧客か」ではない
カスハラ対策が進む背景には、現場で働く人たちの苦しみがあります。理不尽な暴言を浴びる。長時間拘束される。人格を傷つけられる。そのような状況を放置してよいはずがありません。
だから企業は従業員を守らなければならない。その考え方は正しいのです。しかし、そこから「お客様と従業員は対立する存在だ」という発想になってしまえば、本末転倒です。
商売は本来、敵と味方にわかれるものではありません。お客様は満足を求め、店はその期待に応えようと努力する。その積み重ねによって信頼が育まれます。
倉本長治は、「店は客のためにあり、店員とともに栄え、店主とともに滅びる」と説きました。この言葉は、お客様だけを大切にせよという意味ではありません。店員もまた大切な存在であり、その両方があって初めて店は繁盛するという教えです。
ドラッカーもまた、「企業の目的は顧客の創造である」と語っています。顧客を失ってまで守られる職場はありません。逆に、従業員が疲弊する店にも未来はありません。企業が守るべきなのは、「顧客か従業員か」のどちらかではなく、双方の尊厳なのです。
信頼を築く店は「対話」をやめない
これから企業には、カスハラへの毅然とした対応と、正当な苦情への誠実な対応という、一見すると相反する力が求められます。そのためには、現場で判断できる基準を整えることが欠かせません。
「説明を求めること」と「執拗な要求」の違いは何か。「改善要望」と「不当要求」の境界はどこか。その基準を共有し、教育することが、現場の安心にもつながります。そして何より大切なのは、「まず相手の話を最後まで聴く」という姿勢です。
お客様の多くは、最初から争いたいわけではありません。事情を知りたい、納得したい、改善してほしい。その願いが受け止められないとき、不満は怒りへと変わります。
逆に、誠実な説明と謝罪があれば、「わかりました。これからも利用します」と言ってくださるお客様も少なくありません。商売とは、人と人との信頼を積み重ねる仕事です。
だからこそ「それはカスハラです」の一言で対話を終わらせてはいけません。不当な要求には毅然と向き合いながらも、正当な苦情には真摯に耳を傾ける。その見極めこそが、これからの商人に求められる新しい力量ではないでしょうか。
店は商品だけで選ばれる時代ではありません。どのように話を聴き、どのように問題を解決するか。その姿勢まで含めて、お客様は店を選んでいます。苦情を恐れる店ではなく、苦情を学びに変えられる店へ。その一歩を踏み出したとき、お客様との信頼はより深く、より強いものになっていくはずです。







