笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

画面の向こうで、山田五郎さんがゆっくりと息を整えています。頬は痩せ、鼻には医療用のチューブが通っています。それでも、眼鏡の奥の目にはいつもの好奇心の灯が消えずに残っていました。

 

死を語ろうとしている人が、これほど生き生きとして見えることに胸を衝かれます。8月1日にアップされたYouTube「山田五郎 オトナの教養講座」の最新回「山田五郎、最後の授業。伝えたい言葉。【皆様へのメッセージ】」を観た感想です。

 

テーマは「Memento mori(メメント・モリ)」。これは山田さんが生前、最後に収録した講義でした。本来なら話すことさえ難しい状態の中で、それでも「最後に伝えたい」とカメラの前に座ったといいます。

 

2026年7月14日に67歳で亡くなった山田さんが、最後の授業に選んだのは、自分の病気でも、人生の回顧でもありませんでした。古くから人間が向き合ってきた「死と生」の物語でした。

 

 

 

死を覚えることは生を取り戻すこと

 

Memento mori.

 

ラテン語の「memento」は「覚えておけ」「心に留めよ」という命令の言葉です。「mori」は「死ぬこと」。直訳すれば「自分が死ぬことを覚えておけ」となります。日本語では「死を想え」「死を忘れるな」と訳されます。

 

けれども、この言葉は人を暗闇へ連れていくためのものではありません。むしろ、死を忘れて眠り込んでいる私たちをもう一度、生の側へ呼び戻す言葉です。

 

人は、自分の時間が無限に続くような気持ちで暮らしています。会いたい人がいても、「また今度」と思う。伝えたい感謝があっても、「いつでも言える」と胸の奥へしまう。始めたい仕事があっても、「もう少し準備ができてから」と先へ送る。

 

しかし、「また今度」は必ず来るとは限りません。夕暮れの店先で別れたお客様が、次も同じように扉を開けてくださるとは限りません。朝、「行ってきます」と家を出た家族と、夜も変わらず食卓を囲める保証はありません。自分自身でさえ、明日の朝、今日と同じ心と体で目覚めるとは限らないのです。

 

死は遠い未来の断崖ではありません。私たちの一日のすぐ隣を、音もなく歩いています。だからこそ、今日交わす言葉は尊い。今日一緒に食べる食事はあたたかい。今日訪ねてきてくださるお客様は、二度と同じ形では巡ってこない、かけがえのない一人です。

 

山田さんが最後の力を使って語った「メメント・モリ」は、死を恐れなさいという警告ではなかったのでしょう。命には限りがある。だから、目の前の人を粗末にせず、今日という日を生きなさい。そう静かに肩をたたく言葉だったのではないでしょうか。

 

 

今日という花を摘む

 

山田さんは講義の終盤、「メメント・モリ」と響き合うもう一つの言葉を紹介しました。Carpe diem(カルペ・ディエム)です。「carpe」は、花や果実を「摘め」「もぎ取れ」という命令形。「diem」は「一日」「今日」を意味します。したがって直訳は、「今日を摘め」となります。

 

この言葉は、古代ローマの詩人ホラティウスの『詩集』第1巻第11歌に由来します。「Dum loquimur, fugerit invida aetas:carpe diem, quam minimum credula postero.」とは、「こうして語っている間にも、時は逃げ去っていく。今日という日を摘め。明日をできるだけ当てにするな」と記されています。

 

「今日をつかめ」と力強く訳されることもあります。しかし、元の「carpe」には、花や熟した果実を指先でそっと摘み取るような響きがあります。力ずくで一日を奪い取るのではありません。目の前に咲いた一日を見逃さず、丁寧に味わい、自分のものとして生き切るのです。

 

今日という花は、今日しか咲きません。明日になれば、別の花が咲くでしょう。しかし、今日の光を受け、今日の風に揺れ、今日の自分の前に開いた花は、日が暮れれば二度と戻ってきません。

 

私たちは、人生を変えるのは大きな決断だと思いがちです。けれども、人生を本当に形づくっているのは、何げない今日の小さな行動です。長く気になっていた人に電話をかける。世話になった人へ礼状を書く。店の曇ったガラスを磨く。お客様から聞いた不便を一つ直す。働く仲間の目を見て、「ありがとう」と伝える。

 

いずれも、明日に回せることかもしれません。しかし、明日に回せることと、今日やらなくてよいことは同じではありません。

 

商いも人生も「そのうち」という言葉によって、少しずつ輝きを失っていきます。売場の小さな乱れ、お客様のわずかな不満、働く人の寂しそうな表情。それらを見ながら、「忙しさが落ち着いたら」と先送りしているうちに、店と人との間にあったあたたかな糸が、一本ずつ切れていきます。

 

反対に、今日できる一つを今日行えば、店の空気は変わります。人の心が動きます。そして、自分自身の一日にも、「生きた」という確かな手応えが残ります。

 

人生は、特別な日だけでできているのではありません。名もない今日を、どれだけ心を込めて摘み取ったか。その積み重ねがその人の人生になるのです。

 

 

人は何を残して旅立つのか

 

山田五郎さんは、講談社の編集者として雑誌づくりに携わり、その後も評論、執筆、テレビ、ラジオ、YouTubeを通じて、美術や文化の面白さを伝え続けました。難しい知識を高い場所から語るのではなく、素朴な疑問を入り口にして、歴史の奥へ人を案内する。その仕事の根には、「知ることは楽しい」という揺るぎない信念がありました。

 

最後の講義でも、山田さんは自分の死を大げさに語りませんでした。いつものように絵を示し、歴史をひもとき、時に笑いを交えながら、見る人を知識の世界へ連れていきました。死を目前にしながら、なお「自分がどう見られるか」ではなく、「何を伝えられるか」を考えていたのです。

 

そこに、仕事をする人間の気高さを感じます。仕事とは、単に生活の糧を得る手段ではありません。自分が見つけた価値を、誰かへ手渡す営みです。

 

商人は、商品とともに喜びを渡します。料理人は、料理とともに心ほどける時間を渡します。経営者は、働く人に成長の機会と誇りを渡します。教師は、知識とともに未来を見る目を渡します。

 

人はいつか、この世を去ります。地位も、財産も、肩書も置いていかなければなりません。それでも、誰かに渡したものは残ります。

 

教えてもらった言葉が、その人の苦しい夜を支えることがあります。受けた親切が、別の誰かへの親切となって受け継がれることがあります。一つの店で味わったあたたかなもてなしが、生涯忘れられない記憶になることもあります。

 

人が本当に遺すものは、所有した物の多さではありません。誰かの心に、どれだけよいものを手渡したかなのだと思います。

 

Memento mori.
死を覚えておけ。

 

Carpe diem.
今日という花を摘め。

 

二つの言葉は別々の方向を向いているのではありません。一つの真実を、死と生の両側から照らしています。いつか死ぬ。だから、今日を生きる。今日会える人に会い、今日伝えられる言葉を伝え、今日果たせる仕事を果たす。明日という日を信じながらも、明日だけを当てにして、今日を空白にしない。

 

山田五郎さんが最後の授業で遺したものは、死についての知識ではありませんでした。それは、最期の息が近づいてもなお自分の仕事を手放さず、誰かのために一つの花を摘み取って差し出そうとした一人の人間の生き方でした。

 

日が暮れる前に今日の花を摘みましょう。大切な人に言葉を届けましょう。目の前の仕事にもう一度心を込めましょう。

 

私たちに与えられているのは過ぎ去った昨日でも、まだ見えない明日でもありません。手を伸ばせば届く、今日という一輪の花なのです。

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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