笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

給料が増えても消費は元には戻らない

スーパーの売場で、客がいつもの商品を手に取ります。値札を確かめ、隣の商品と比べ、少し考えて棚へ戻す。ところが、その帰りには値段の高い総菜を買っています。一見、矛盾した行動です。しかし、現在の消費を考えるうえで、これほど象徴的な光景はありません。

 

消費者は、何も買わなくなったのではありません。毎日の食卓では数十円を切り詰めながら、時間を節約できるもの、健康を保てるもの、気持ちを満たすものにはお金を使う。家計全体を縮めるというより、支出先を組み替えているのです。

 

厚生労働省の毎月勤労統計によると、2026年5月の現金給与総額は1人平均31万1165円で、前年同月比3.2%増えました。物価上昇を差し引いた実質賃金も1.4%増でした。ただし、この数字だけから「家計に余裕が戻った」と判断することはできません。総務省の家計調査では、同月の二人以上世帯の消費支出は、前年同月比で実質0.4%減でした。一方、季節調整した前月比では3.7%増えています。

 

消費は一方向に悪化しているのでも、力強く回復しているのでもありません。月ごとに振れながら、支出の中身が変わっていると見るべきです。

 

 

実質賃金のプラスを過大評価してはいけない

 

実質賃金がプラスになったことは明るい材料です。しかし、これは2026年5月の賃金の伸びが、同月の物価上昇を上回ったことを示すにすぎません。過去に値上がりした食品や日用品の価格が、元へ戻ったわけではありません。数年間にわたり失われた購買力が、一カ月で回復したわけでもありません。

 

さらに、毎月勤労統計の現金給与総額には賞与などの特別給与が含まれます。そのため、実質賃金を見るときには、単月の数字だけでなく、所定内給与の継続的な伸びや、数カ月にわたる傾向を確かめる必要があります。毎月勤労統計自体も、賃金指数や季節調整済み指数など複数の系列を公表しています。

 

もう一つ見落とせないのが、世帯による差です。賃上げの恩恵を受けやすい現役の正規雇用者と、年金を中心に暮らす高齢者では、所得の動きが異なります。住宅ローンや教育費を抱える世帯と、金融資産を持つ世帯でも、消費余力は違います。

 

平均賃金が増えても、すべての顧客の財布が同じように豊かになるわけではありません。むしろ、平均値の陰で、消費余力の差が広がる可能性があります。日本銀行は、雇用・所得環境の改善と物価上昇率の鈍化により、個人消費が緩やかな増加基調へ戻ると見ています。ただし、物価や海外経済などをめぐる不確実性も大きく、力強い消費拡大を保証しているわけではありません。

 

 

消費は縮小するのではなく支出先が入れ替わる

 

「消費者は節約している」という説明は、半分しか現実を捉えていません。消費者が減らしているのは、すべての支出ではありません。値上がりしても必要性や違いを感じにくい商品、買わなくても生活に支障がない商品、購入を先送りできる商品です。

 

反対に、手間を省くもの、健康を守るもの、家族との時間を豊かにするもの、強い満足を得られるものには支出します。ここで重要なのは、「高くても価値があれば売れる」という楽観論に陥らないことです。企業が価値を感じていても、顧客が同じように感じるとは限りません。原材料へのこだわりや丁寧な製法は、それだけでは購入理由にならないこともあります。顧客が実際に得る便益へ翻訳されて初めて、価値になります。

 

「国産材料を使っています」ではなく、「毎日食べても飽きにくい」。「職人が手作りしています」ではなく、「修理しながら十年使える」。企業側の努力を語るのではなく、顧客の暮らしがどう良くなるかを示さなければなりません。

 

影響が大きいのは、食品スーパー、ドラッグストア、外食、衣料品、家電、自動車、住宅などです。必需品を扱う企業は客数を保ちやすい半面、低価格商品への移行や購入点数の減少で利益を圧迫されます。外食や衣料品では、来店回数そのものを減らされる恐れがあります。住宅や自動車などの高額商品は、購入時期を先送りされやすい。つまり、業種ごとに問題は違います。すべての企業に「価値を伝えよう」と呼びかけるだけでは、対策になりません。

 

 

顧客の支出配分に入り込む

 

これから店が問うべきなのは、「どう売るか」だけではありません。顧客は何の支出を減らし、その代わりに何へお金を回そうとしているのか。そこを理解する必要があります。食品店なら、単価だけでなく、一食当たりの費用、廃棄の少なさ、調理時間まで示します。衣料品店なら、流行性だけでなく、着用回数や手持ちの服との組み合わせを提案します。家電店なら、新製品の性能だけでなく、電気代、修理可能年数、買い替えによって生まれる時間まで説明します。

 

同時に、自店の数字を顧客別に見直します。売上全体だけでは不十分です。客数、来店頻度、買上点数、平均単価、商品別粗利益を追い、「値上げ後に誰が離れたか」「何が別の商品へ置き換わったか」を確かめます。価格帯も一律に引き下げるのではなく、顧客が選べるように組み直します。少量商品、標準商品、上位商品を用意し、必要に応じて修理、下取り、定額利用など、所有以外の選択肢も加えます。

 

ただし、売れないものを説明不足のせいにしてはいけません。顧客にとって必要性が薄れた商品は、どれほど丁寧に説明しても売れません。その場合に必要なのは、販売技術の改善ではなく、品ぞろえや事業そのものの見直しです。

 

これから消費が緩やかに持ち直したとしても、以前の売れ方に戻るとは限りません。人口減少、高齢化、デジタル化、物価上昇を経験した消費者は、支出の優先順位を変えています。だからこそ、景気回復を待つのではなく、顧客の新しい家計配分の中に、自店の居場所をつくらなければなりません。

 

問われているのは、価格の高さではありません。限られた所得の中で、ほかの支出を差し置いてまで選ばれる理由があるか。これからの商いは、その厳しい問いから始まります。

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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