◆今日のお悩み
原材料費、人件費、光熱費、物流費が上がり続けています。値上げをしなければ利益は残りません。けれど値上げをすれば、お客様が離れてしまうのではないかと不安になります。価格を上げても選ばれる店になるには、何を大切にすればよいのでしょうか。

日曜日の朝。少し遅く起きて、台所に立ちます。冷蔵庫からバターを出し、食パンを一枚取り出します。トースターの中でパンが色づき、部屋に香ばしい匂いが広がります。その一瞬に、人は思います。今日は少し良い朝になりそうだ、と。
食パンは、特別な食べ物ではありません。毎日の食卓にあり、忙しい朝にも、ゆっくり過ごす休日にも寄り添っています。だからこそ人は、パンに派手さだけを求めているわけではありません。いつもの味であること。安心して買えること。また明日も食べたいと思えること。その積み重ねに、お金を払っています。
値上げの時代に問われているのは、価格の高い低いだけではありません。お客様は、なぜその価格なのかを見ています。品質は守られているか。説明は誠実か。店の姿勢に納得できるか。そこに信頼があれば、価格改定は単なる負担ではなく、店を続けるための約束として受け止められます。
価格以上に失うもの
スーパーの棚の前で、ふと手が止まります。いつも買っている菓子の値段は変わっていません。ところが家に帰ってよく見ると、内容量が減っています。箱の大きさは同じなのに、個数が少ない。袋の見た目は同じなのに、少し軽い。
もちろん事情はわかります。小麦も砂糖も油も上がっています。包材も電気代も物流費も上がっています。企業努力だけでは吸収できないことも多いはずです。だから値上げそのものを責めたいわけではありません。
それでも胸の奥に小さな違和感が残ります。価格ではなく、知らされなかったことへの違和感です。中身が変わったことよりも、変わった理由が伝わってこないことが、信頼を静かに削っていきます。
値上げで失うものは、客数だけではありません。もっと怖いのは、店とお客様の間にあった納得が薄れることです。お客様は安さだけで動いているのではありません。限られた家計の中で、後悔しない買い物をしたいと思っています。だからこそ、価格の裏側にある考え方を見ています。
この時代、価格を上げないことが誠実なのではありません。必要なときに、必要な理由を伝え、守るべき品質を守ることが誠実なのです。

二種類だけを磨き続ける強さ
東京・浅草に、昭和17年創業の老舗パン店「パンのペリカン」があります。扱う商品は、基本的に食パンとロールパンです。今の時代なら、菓子パン、惣菜パン、季節限定商品、映える新商品を次々と並べたくなります。だがペリカンは、商品を広げるのではなく、絞る道を選んできました。
食パンとロールパンだけ。言葉にすれば簡単です。しかし長く続けるのは容易ではありません。選択肢が少ない店は、ごまかしがききません。主力商品の出来が、そのまま店の評価になります。だからこそ、一つひとつのパンの品質を磨き続けるしかありません。
ペリカンの強さは、目新しさではありません。毎日食べても飽きないことにあります。食卓にのせたときに主張しすぎず、それでいて確かにおいしい。トーストにしても、サンドイッチにしても、食べる人の暮らしに自然になじみます。派手な感動ではなく、静かな納得を積み重ねてきた店です。
価格も変えてきました。2022年4月には小麦をはじめとする原材料価格、燃料費などの高騰を理由に価格を改定しました。現在、食パン1斤は560円(税込)です。決して最安値ではありません。それでも選ばれています。
なぜでしょうか。値上げが品質を守るための選択として伝わっているからです。価格を据え置くために味を落とすのではありません。量を目立たないように減らすのでもありません。守るべきものを明確にし、そのために必要な価格を受け入れてもらう。その姿勢が、長い時間をかけて信頼になっています。

変えないために変える
2018年前後から、高級食パンブームが広がりました。甘く、やわらかく、手土産にもなる非日常の食パンが注目され、各地に専門店が生まれました。行列ができ、メディアが取り上げ、華やかな店名や紙袋が話題になりました。
もちろん、そこには新しい市場を切り開いた価値があります。食パンという日常の商品に、贈答性や話題性を持ち込んだ点は大きな発明でした。しかし、ブームは永遠には続きません。特別なパンは人を惹きつけますが、毎日の食卓に定着するには別の力が要ります。
日常の商品は、買う理由が毎日なければなりません。価格に納得でき、味に安心でき、また買うことが暮らしの一部になっていく必要があります。話題で一度買ってもらうことと、習慣として買い続けてもらうことは違います。
ペリカンが教えてくれるのは、変わらない店ほど、実は変わる努力をしているということです。小麦の状態、気温、湿度、働く人、買う人の暮らし。すべてが変わる中で、同じようにおいしいパンを届けるには、日々の調整が欠かせません。
「変わらない味」とは、何もしないことではありません。変わる環境を引き受けながら、お客様に届ける価値を変えないことです。ここに、長く選ばれる店の本質があります。
信頼は値札の外側にある
値上げは怖いものです。店主なら誰でもそう感じます。昨日までの価格を変えることは、お客様との関係に手を入れることだからです。しかし、価格を上げることだけが問題なのではありません。問題は、何を守るための値上げなのかを自分の言葉で語れるかどうかです。
原価が上がったから仕方なく上げる。その説明だけでは、店の都合に聞こえます。だが、品質を守るために上げる。働く人を守るために上げる。明日もこの味を届けるために上げる。そう語れる店は、価格改定を通じて自分たちの価値を確認できます。
お客様は、すべての値上げを拒むわけではありません。納得できない値上げを嫌うのです。反対に、理由が伝わり、品質が守られ、店の姿勢が見える値上げなら、それを支える人は必ずいます。
安さは、すぐに比べられます。けれど信頼は、簡単には比べられません。日曜日の朝に、またあのパンを食べたいと思われること。その小さな習慣の中に、店の強さは宿ります。
値上げの時代に必要なのは、値段を上げる勇気だけではありません。何を守る店なのかを決める勇気です。価格は数字ですが、その数字の向こう側に、店の生き方が表れます。
#お悩みへのアドバイス
値上げは
お客様を試すことではない
自店が何を守るのかを
言葉にする機会である
※このブログは、東海道・山陽新幹線のグリーン車でおなじみのビジネスオピニオン月刊誌「Wedge」のオンラインメディア「Wedge ONLINE」の連載コラム「商いのレッスン」を加筆変更してお届けしています。これまでのコラムもお読みいただけます。







