東京・杉並区、阿佐谷パールセンター商店街。買い物客の足音と店先の呼び声が重なる通りに、甘く香ばしい匂いが流れてきます。店頭では職人が一匹ずつ鉄の焼き型を返し、カチャリ、カチャリと心地よい音を立てながら、たいやきを焼いています。焼き上がりを待つ人、手土産に買い求める人、店先で頬張る人。小さな売場の前には次々とお客さんが立ち寄ります。
その店が「たいやきともえ庵」です。薄く香ばしい皮の中には、甘さを抑えた自家製の粒あんがたっぷりと入ります。焼きたてを頬張れば、皮のパリッとした食感の後から、小豆の風味が静かに広がります。
扱っているのは、誰もが知るたいやきです。珍しい商品ではありません。それでも、この小さな店には近隣だけでなく遠方からも客が訪れ、テレビや雑誌などの取材が相次いできました。
なぜ、一軒のたいやき店がこれほど人を引き寄せるのでしょうか。そこには価格競争に加わらず、自ら価値をつくり、客との関係を育て、店のほうから追いかけなくてもメディアが紹介したくなる話題を生み出す、小さな店ならではの商いがあります。

客を呼べる店をつくる
店主の辻井啓作さんは、もともと中小企業診断士として商店街活性化に携わってきました。その現場で一つの疑問を抱きました。
商店街はイベントによって人を呼ぼうとします。しかし、イベントは毎日行われるわけではありません。商店街が本当に必要としているのは、一時的に人を集める催しではなく、日々、客を呼び続ける魅力的な店ではないか、という疑問です。
「商店街が呼ぶべきは、お客さんではなく、お客さんを呼んでくれる店です」と主張する以上、自ら「客を呼べる店」をつくれるのか試してみなければなりません。そこで選んだのが「たいやき」でした。
たいやきは誰もが知っています。一方、一匹ずつ焼き型を使って焼く「一丁焼き」の価値は、広く知られているとは言いがたいものです。身近な商品でありながら、まだ伝え切れていない違いがあります。そこに商機を見いだしました。
商売の可能性は、必ずしも新奇な商品の中だけにあるのではありません。誰もが知っている商品を、まだ誰も十分に伝えていない価値から見直すことでも、新しい市場は生まれます。

高級素材より手間を売る
辻井さんは開業前、携帯用の糖度計を購入し、都内の主要なたいやき店を回って餡の糖度を調べました。そのうえで他店より甘さを抑え、小豆の味を感じられる餡を設計しました。
小麦粉も高価なものから順番に試しました。価格を下げても味の違いを感じられないところまで比較し、必要以上に高級な材料を使いませんでした。小豆も、きらびやかな産地名を掲げるのではなく、北海道産の一般的なものを用います。素材の肩書で高く売るのではありません。普通の材料に、他店ができないほどの手間をかけるのです。
餡は毎日炊き、低糖度ゆえに日持ちしないものは翌日に持ち越しません。焼き上がったたいやきも、焼いてから約20分を超えれば商品として出しません。すぐに食べる客には、その時点でもっとも新しく焼けたものから渡します。一丁焼きの習得にも時間をかけます。焼き手が売り物を任されるまでには相応の練習が必要になります。
価値は、高価な材料を使えば生まれるものではありません。誰も見ていないところで、どこまで手間を惜しまないか。その覚悟が一口食べたときの違いになります。これこそ小さな店が大手と戦わずに選ばれる方法です。

値段ではなく価値を問う
ともえ庵の定番たいやきは2011年創業以来、長く一匹150円で売られていました。その後2018年に180円、さらに200円、250円と段階的に改定し、現在は300円となっています。価格だけを見れば、開業当初の倍です。
しかし、辻井さんの関心は「いくらまで上げられるか」にはありません。問うているのは「この商品には本来、いくらの価値があるのか」です。「自分のたいやきには、400円でも500円でも払ってもらえる価値があると思っています」と辻井さんは言います。
もちろん、そう考えていても値上げには毎回不安が伴います。客足が落ちるのではないか。高いと思われるのではないか。そこで価格改定は、客が多い冬の繁忙期に行います。売れる時期に新価格を体験してもらい、夏の閑散期までにその価格を日常のものとして定着させるためです。
値決めには、自店の価値に対する自信と、客の受け止め方を見極める慎重さの両方がいります。安く売ることは、一見すると客のために思えます。ですが、価格を抑えるために、品質を落とし、働く人を疲弊させ、店が続かなくなれば、結局は客を失望させます。適正な価格とは、原価に利益を足して決める数字だけではありません。店が約束した価値を守り、明日も商いを続けるための数字です。

次に来る理由をつくる
どれほどおいしい商品でも、一度買って終われば商いは安定しません。大切なのは、初めて来た客に「次も来たい」と思ってもらうことです。ともえ庵では、定番商品に加えて「月替りたいやき」を展開してきました。毎月異なる素材や組み合わせを考え、その店にしかない味をつくります。梅干し、青実山椒、生姜など、たいやきの既成概念を越える挑戦も少なくありません。
月が替われば商品も替わります。今月食べれば、来月も確かめたくなります。商品開発がそのまま再来店の理由になります。さらに、月替りたいやきのスタンプを集める「御鯛印帖」もつくりました。御朱印帳を思わせる帳面に、「御鯛印」と名付けた印を集めていく仕組みです。
これは単なるポイントカードではありません。値引きという金銭的利益で再来店を促すのではなく、「次の味を食べたい」「印を集めたい」「一年を通じて店と付き合いたい」という楽しみを生んでいます。
割引によって客をつなぎ止める関係は、より安い店が現れれば切れやすくなります。ですが、楽しみ、発見、収集、思い出によって結ばれた関係は、価格だけでは比較されにくいものです。リピート客を育てるとは、何度も買ってもらう仕組みをつくることではありません。客の暮らしの中に、店を訪れる小さな楽しみを埋め込むことです。

商品そのものをニュースにする
ともえ庵の名を広く知らしめた商品の一つに「たいやきの開き」があります。もともとは、焼き上がったたいやきのロスを減らせないかという発想から生まれました。たいやきを二枚に開き、内側に新たな皮を付け、プレスして水分を飛ばします。すると、パリパリとした煎餅のような新商品になりました。
「たいやきの開き」という名前を聞けば誰もが一瞬、どんな姿かを想像します。実物を見れば、思わず誰かに話したくなります。干物を思わせる包装も、商品の物語を強めています。この商品はテレビや雑誌など多くのメディアに取り上げられました。
小さな店には多額の広告費はありません。しかし、記者や番組制作者が「これは人に知らせたい」と感じる商品はつくれます。メディアが求めているのは「おいしい店です」「こだわっています」という店側の主張だけではありません。意外性のある姿、思わず口にしたくなる名前、開発に至った理由、つくり手の思想が一体となった物語です。
ともえ庵のブログも、その役割を果たしています。新商品の着想、試作、材料、製法、失敗まで丁寧に言葉にします。そこには取材する側が知りたい情報が、すでに用意されています。
PRとは、自分から「取り上げてください」と頼み続けることではありません。語りたくなる商品をつくり、誰でも理解できる言葉でその背景を公開しておくことです。広告費がなくても商品自身が広告になり、客が語り手になり、メディアが物語の運び手になります。その詳細については辻井さんがお書きになった『片手間PR術』に、実践者ならではのノウハウが紹介されています。ぜひご覧ください。

一匹のたいやきから始まる
このように、ともえ庵が売っているのはあんこの入った焼き菓子だけではありません。一丁焼きの香ばしさ。甘さを抑えた餡。焼きたてを渡すための手間。毎月訪れたくなる発見。人に話したくなる驚き。そうした目に見えない価値を、一匹のたいやきに重ねています。
小さな店が価格競争に巻き込まれるのは、商品が同じに見えるからです。違いがないのではありません。違いがつくられていないか、伝えられていないのです。
価値をつくる。次に来る理由をつくる。誰かに話したくなる物語をつくる。これら三つがそろえば、小さな店は安さを武器にしなくても客を呼べます。そして、毎日客を呼べる店が一軒増えることこそ、商店街にとって最も確かな活性化になります。
ともえ庵が教えてくれるのは、規模の小ささは弱さではないということです。小さいからこそ、手間を惜しまず、客の声を聞き、すぐに新しいことを試せます。店主の思想を商品に込め、自分の言葉で語ることもできます。小さな店が磨くべきものは、安さではありません。「この店でなければならない理由」なのです。







