笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

人は会話だけを買いには行けない

午後3時を過ぎたころ、一人の高齢の女性が店に入ってきました。店内をゆっくり見て回り、いつもの商品を一つ手に取ります。会計を済ませても、すぐには帰りません。

 

「今日は風が強いわね」
「この前買ったもの、おいしかったわ」
「息子が今度の日曜日に来るのよ」

 

店主は手を動かしながら相づちを打ちます。会話は5分ほど続きました。女性は最後に、「じゃあ、またね」と少し明るい表情で店を出ていきました。買ったのは、ほんの小さな商品です。けれども、あの女性は本当に商品だけを買いに来たのでしょうか。

 

もしかすると、誰かと言葉を交わしたかったのかもしれません。自分のことを覚えている人に会いたかったのかもしれません。今日も外の世界とつながっていることを、確かめたかったのかもしれません。店にはときどき、買い物に来たのではないお客様が訪れます。

 

 

買い物に来たのではないお客様

 

社会が便利になるほど、人は誰とも会わずに暮らせるようになりました。商品はスマートフォンで注文できます。食事は自宅まで届きます。銀行の手続きも、切符の購入も、さまざまな申請も画面の中で済ませられます。

 

便利になったことは間違いありません。時間を節約でき、移動が難しい人でも商品やサービスを利用できます。デジタル化は多くの不便を解消してきました。しかし、便利さによって失われたものもあります。

 

店員との短いやりとり。顔見知りとの立ち話。「今日はどうしました」と気にかけてもらうこと。自分の変化に、誰かが気づいてくれること。人は、会話だけを求めて店に行くことはなかなかできません。「寂しいので話をしてください」とは言いにくいものです。

 

けれども、牛乳を買う、薬を受け取る、髪を切る、靴を直すという目的があれば、自然に人と会うことができます。買い物には人と人を結びつける力があります。商品やサービスの受け渡しを通じて、挨拶が生まれます。挨拶から会話が生まれます。

会話を重ねるうちに、互いを気にかける関係が生まれます。店は物を手に入れる場所であると同時に、人が社会に触れる場所でもあるのです。

 

 

店だから気づける変化がある

 

私はこれまで、全国各地の多くの店を取材してきました。長く地域で商売をしている店主は、お客様の小さな変化によく気づきます。いつも来る人が、しばらく姿を見せない。以前より歩く速度が遅くなった。買う商品の量が急に減った。身なりが乱れている。会話の受け答えがいつもと違う。これらは顧客データだけでは捉えにくい変化です。

 

店主は医師でも、福祉の専門家でもありません。家庭の事情に踏み込みすぎるべきでもないでしょう。それでも、「お変わりありませんか」と声をかけることはできます。必要であれば、家族や地域の支援機関につなぐこともできます。商品を届けるついでに元気な姿を確認することもできるでしょう。

 

ある店では、高齢のお客様がいつもの日に来店しなかったため、店主が心配して自宅へ連絡しました。そこで体調を崩していたことがわかり、家族へ知らせることができたといいます。

 

店主は、見守り活動をしているつもりではなかったかもしれません。ただ、いつも来る人を覚えていた。その人が来ないことに気づいた。心配になって行動した。商いの中で生まれた関係が一人の暮らしを支えたのです。

 

地域に店があることの価値は、売上高や店舗面積だけでは測れません。その店が何人の顔を覚えているか。何人の変化に気づけるか。何人に「また明日」と言えるか。そうした数字になりにくい力も、店が地域にもたらす大切な価値です。

 

 

売らない時間が店の価値をつくる

 

効率だけを考えれば、会計は短いほどよいことになります。お客様が商品を選び、代金を払い、速やかに店を出る。少ない人数で多くのお客様に対応するには、そのほうが合理的です。もちろん、急いでいるお客様を引き止める必要はありません。長い会話が他のお客様を待たせることもあります。

 

けれども、すべての会話を無駄と考えてしまえば、店は商品の受け渡し場所に近づいていきます。実店舗の価値は効率だけでは生まれません。「前に買った商品はいかがでしたか」「今日はお一人ですか」「しばらくお見えになりませんでしたね」といった一言によって、お客様は「自分を覚えてくれている」と感じます。

 

人は、自分が一人の人間として扱われる場所にもう一度行きたくなります。話を聞くといっても、特別な相談技術が必要なわけではありません。すぐに答えを出さなくてもよいのです。相手の話を遮らない。否定せずに受け止める。覚えていたことを、次に会ったときに尋ねる。これでいいのです。

 

「お孫さんの入学式はいかがでしたか」「お母様の具合は、その後どうですか」「先日の料理、うまくできましたか」と、前に話したことを覚えてもらっているだけで、人は自分の存在が大切にされていると感じます。

 

商いの現場では、売ることにつながらない時間もあります。しかし、その時間が店への信頼を育て、地域に安心を生み、結果として長いお付き合いにつながっていきます。売らない時間は必ずしも無駄ではありません。むしろ、売ろうとしなかった時間にこそ、店の価値が伝わることがあります。

 

 

店は社会への小さな入口になる

 

孤独を抱えるのは高齢者だけではありません。幼い子どもを育て、家にこもりがちな人。知らない土地へ引っ越してきた人。家族の介護を続けている人。仕事を失い、自信をなくしている人。言葉や習慣の違う国から来た人。学校や職場に居場所を見つけられない人。外からはわからなくても、多くの人がそれぞれの孤独を抱えています。

 

店にできることは限られています。すべての悩みを解決することはできません。人生を背負うこともできません。それでも、気持ちよく挨拶をすることはできます。名前を呼ぶことができます。いつもと違う様子に気づくことができます。「また来てください」と伝えることができます。その小さな働きかけが、人を社会につなぎ止めることがあります。

 

店に行けば、知っている人がいる。自分のことを覚えている人がいる。短くても言葉を交わせる。次に行く理由がある。それだけで、人はもう少し前を向けることがあります。

 

商店、飲食店、理美容店、薬局、修理店、喫茶店など、地域にある一軒一軒の店は暮らしの中に開かれた小さな入口です。そこから人は社会とつながり直すことができます。

 

 

「またね」が交わされる場所

 

店が地域から消えるとき、失われるのは商品を買う場所だけではありません。毎朝交わしていた挨拶がなくなります。何げない話を聞いてくれる人がいなくなります。誰かの変化に気づく目が一つ減ります。外へ出かける目的が一つ失われます。

 

大型店やインターネットがそのすべてを代替できるわけではありません。小さな店には、小さな店にしかできないことがあります。一人のお客様の顔を覚えること。その人の暮らしの変化に気づくこと。必要以上に立ち入らず、しかし無関心にもならないこと。それらは、売上表には記録されません。

 

けれども、その積み重ねが人が安心して暮らせる地域をつくります。店は孤独を完全になくすことはできません。しかし、一人でいる時間の中に、短い会話を生み出すことはできます。誰にも気づかれない一日に、「今日は会えてよかった」という瞬間をつくることはできます。

 

お客様が店を出るとき、店主が声をかけます。「ありがとうございました」だけではなく、「お気をつけて」「また顔を見せてください」「では、また明日」といった言葉は、次の来店を促す販売用語ではありません。あなたがここへ来ることを、待っている人がいる。あなたが今日ここに来たことに、気づいている人がいる。そう伝える言葉です。

 

買い物に来たのではないお客様が今日もどこかの店の扉を開けます。その人を迎える店の灯りは、商品を照らすだけではありません。人の心を照らし、人と社会をつなぎ、孤独の中に小さなぬくもりをともしているのです。

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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