笹井清範OFFICIAL|商い未来研究所

商売とは、単なるモノやサービスの売買ではなく、「人」と「人」との関係性によって成り立つ営みです。そこには言葉にならない心のやりとりや、目に見えない気づかいが潜んでいます。そんな「人間業」としての商業の本質を、深く見つめ直すヒントを与えてくれるのが、美学者、伊藤亜紗さんの著書『手の倫理』です。

 

著者は、美学者であり東京工業大学の教授。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』などで知られ、身体感覚やケアの現場から人間理解を深めてきた伊藤さんは、本書で「手」に着目し、人と人とがふれあうとはどういうことか、ケアの視点から丁寧に紐解いていきます。

 

本書で繰り返し語られるのが、「さわる」と「ふれる」の違いです。伊藤さんは、相手の意思に関係なく自分の意図で行うのが「さわる」であり、相手との関係性や文脈を受け取りながら、双方向のやりとりとして生じるのが「ふれる」だと説きます。

 

たとえば、著者はこう述べます。

 

「ケアの場面で、『ふれて』ほしいときに『さわら』れたら、勝手に自分の領域に入られたような暴力性を感じるでしょう。逆に触診のように『さわる』が想定される場面で過剰に『ふれる』が入ってきたら、その感情的な湿度のようなものに不快感を覚えるかもしれません。ケアの場面において、『ふれる』と『さわる』を混同することは、相手に大きな苦痛を与えることになりかねないのです」(本書7頁)

 

この一節は、単なる医療や介護の現場に限らず、私たちのあらゆる仕事に通じるものです。とりわけ、商いに携わる人々にとっては、きわめて示唆的です。なぜなら、私たち商人が日々向き合っているのも、「商品」ではなく「人」だからです。

 

たとえば、あるお客様が悩みながら商品を選んでいるときに、「これがおすすめですよ!」と一方的に売り込むことは、もしかしたら「さわる」行為かもしれません。相手の表情や言葉にならない気配を感じ取り、「もしかして、お探しのものが見つからないのでは?」と声をかける。それは「ふれる」姿勢です。

 

「さわる」が自己都合からの押しつけであるのに対し、「ふれる」は相手の気持ちや背景を想像し、尊重しようとする態度。その違いこそが、商いの場面でも信頼と共感を生む鍵になります。

 

伊藤さんの言葉を借りれば、優れた商人とは、「ふれる」ことのできる人です。売り手と買い手という単なる立場の違いを越え、相手の暮らしに想いを馳せ、その人の一日が少しでも豊かになるようにと願う。その姿勢が、「この人から買いたい」という感情を呼び起こします。

 

たとえば、以前のブログ「名もなき灯火」で紹介した、小さな青果店のご夫婦のように、おばあさんが忘れたビニール袋を届けるために駅まで走ったあの行為は、まさに「ふれる」営みです。それは計算やマニュアルではなく、相手を想う気持ちに突き動かされた行動でした。そして、その誠実な「ふれあい」が多くの共感を呼び、商店の信頼となって広がっていったのです。

 

本書では、「ふれる」ことの難しさも語られます。ふれるには、相手を知ろうとする努力と、自分の思いを抑える節度が求められます。それはまさに、商売の現場で求められる「聞く力」「観る力」と重なります。一方的に提案するのではなく、相手のニーズを引き出し、そっと寄り添う。その繊細なやりとりの中にこそ、価格を超えた「価値」のある商いが生まれるのです。

 

本書の終盤では、「ふれる」ことは、必ずしも「やさしさ」だけではないと記されます。「ふれる」は、相手に委ね、相手と関係を築くことだからこそ、ときに痛みや葛藤も伴います。しかし、その過程こそが、人と人が本当にわかりあおうとする営みであり、私たちが「信頼」や「安心」といった無形の価値を得るために欠かせないものだと、著者は訴えます。

 

それは、商品を並べ、接客を重ね、地域と共に生きる商人の道と重なります。数字では測れない価値。瞬間的な売上よりも、長く記憶に残る信頼。それこそが、商いの原点であり、私たち商人の誇りなのです。

 

『手の倫理』は、ビジネス書ではありません。しかし、その核心には、これからの商いに欠かせない「人の温度」があります。効率化や無人化が進む時代だからこそ、商人は「ふれる」ことを忘れてはなりません。

 

あなたの差し出す手は、お客様に「さわって」いませんか? それとも、そっと「ふれよう」としていますか? この問いを胸に、今日も店を開けましょう。

 

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笹井清範

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

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